梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「終戦の日」

 今日は「終戦の日」である。1945年8月15日、天皇はポツダム宣言を受諾し「無条件降伏」を公表した。日本は「先の大戦」で敗北したのである。だから、「敗戦の日」と言った方が正確かも知れない。だがしかし、敗戦と言わずにあえて「終戦」と言うところに意味がある、と私は思う。このときの「戦」とは、どの戦争を指しているか。敗戦の「戦」は「先の大戦」(第二次世界大戦)を指しているが、終戦の「戦」は、それだけではない。これまでに経験した「戦争」(内戦を含む)のすべてを指しているはずである。「終」もまた「終わった」という意味を超えて、「終わりにする(終結)」という意味でなければならない。「終戦の日」は、世界に先駆けて《今後一切、戦争はしない》(戦争を紛争解決の手段とする時代を終わりにする)ことを確認し合い、誓い合う日でなければならないのである。そのことは、まもなく制定された「日本国憲法第9条」に具現化されている。
 にもかかわらず、最近、再び「戦争に向かう」空気が漂ってきた。例えば「ウクライナ支援」。ロシアの侵略に対して自国を守ろうとするウクライナの立場を支持し、できるかぎりの支援をしたいという「心情」に共感する人々は少なくないだろう。しかし、両国は、紛争の解決手段として「戦争」を選んでいるのである。ロシアとウクライナは「殺し合い」を行い、多数の両国民が落命していることは間違いない。《どんな理由があろうとも、「戦争」は行わない。いかなる「戦争」にも、死者がでるかぎり勝利はないのだから。》この金科玉条を両国に示し、ただちに戦争をやめるように説得するべきではないだろうか。
 戦争は、いつの時代でも「愚かな指導者」によって、引き起こされる。「やられたらやりかえせ」といった感情論や、「自国を守るための正当な権利」だと主張する「屁理屈」を国民が「鵜呑み」にすることが、要因だろう。かつての日本には「厭戦は意気地なし」「反戦は非国民」という国民感情があった。そして、「戦死」することこそが、「国のためになる」という「詭弁」があった。作詞家・島田磬也の作物に「軍国の母」がある。「こころ置きなく祖国(くに)のため 名誉の戦死頼むぞと 泪を見せず励まして 我が子を送る朝の駅 生きて還ると思うなよ 白木の柩(はこ)が届いたら でかした我が子あっぱれと お前の母は褒めてやる」と芸者歌手の美ち奴が謳っているが、これが母の本心ではないことは誰にでもわかる。これを聴いて喜ぶのは「愚かな指導者」たちだけであろう。 だから、油断してはいけない。私たちは、いつでも「戦争に向かう」空気に騙されるリスクを負っているのである。 
「終戦の日」は、同時に「反戦の日」でもあるのだ。
(2023.8.15)