梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

大衆演劇・幕間閑話・大衆演劇は「〇〇芝居」?

 昨晩、ハンドルネーム・Andorra氏(以下A氏という)から、私の拙いブログ記事「脱テレビ宣言・大衆演劇への誘い」にコメントがついた。その内容は以下の通りである。〈大衆演劇見るなら 高いお金出してでも歌舞伎や文楽、宝塚、商業演劇等が観たいなあ。 あんな人間のクズで形成された紙芝居以下に1円も払うのは私はゴメンですよ。〉げに、ごもっとも!私は心中で快哉を叫んだ次第である。おそらく、日本の「大衆」は、A氏と「五十歩百歩」の見解をお持ちのことであろう。大衆演劇の劇団員、関係者は「人間のクズ」、舞台の内容も「紙芝居以下」、まさに言い得て妙。他氏からは、「○○芝居」というコメントまで寄せられたこともある。それが、「大衆」の一般的な評価であることは間違いあるまい。さればこそ、大衆演劇の常連、贔屓筋は多く見積もっても2万人(日本人口の0.02%)程度に過ぎないのである。しかし、「一寸の虫にも五分の魂」、クズにはクズの「意地」(矜持)がある。その代表である私自身の見解では、「大歌舞伎」「宝塚」「商業演劇」の入場料は高すぎる。しかも客席にランクをつけて、大枚な金を払えば払うほど優遇されるというシステムは許しがたい。加えて舞台の内容は「紙芝居程度」、老いさらばえ、呂律も回らない大御所連中で形成された(似而非)歌舞伎、ギンギラギンに飾り立てた「学芸会」並の宝塚、映画・テレビ界から締め出された(あるいは掛け持ちの)大物・小物俳優連中で形成された商業演劇など、「高いお金をもらっても」御免蒙りたい。要するに、冗長・退屈の極み、時間の無駄なのである。「人間」であるA氏と「クズ」である私の見解は正反対、文字通り「見解の相違」ということになるのだが、さらに蛇足を加えれば、「人間」には「○○」の有り難さがわからない。自分が垂れ流した排泄物でありながら、ことのほか忌み嫌う理不尽さに気づかない。「クズ」は「○○」とともに生きている。「○○」の意味・有り難さを知っている。日本の伝統的な農業は「○○」によって支えられていた。昭和中期までの野菜の「味」は、「○○」の賜であったことを知っている。昨今の野菜は農薬まみれ、「見栄え」ばかりを尊重して、品質は「無味乾燥」、まさに歌舞伎、宝塚、商業演劇の舞台と「瓜二つ」ではあるまいか。「○○芝居」の大衆演劇には、「味」がある。その「味」とは、「情」であり「恩」であり「温」であり「絆」であり「慈」であり、とどのつまりは「人間の尊厳」(人権尊重)まで標榜していることを、「クズ」は知っているのである。
(2013.8.21)