梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「言語発達の臨床第1集」(田口恒夫編・言語臨床研究会著・光生館・昭和49年)通読・12

【要約】
F’環境条件や情報の変化に対して臨機応変に対応する能力が低いため、物事が一定していることを好み、それが変化するといらだちを示す症状。
131. 偏食がひどい。
132. 偏食がある。肉のかたまりがきらい、野菜がきらい、など。
133. 特定のものしか食べない。
134. 水にぬれることはしない。
135. きたないことはしない。
136. 粘土など形の定まらないものがきらい。
137. ストーブにふれて変形した玩具をいやがる。
138. 戸の開閉をきっちりとする。
139. ブロックなどをピッチリつめたりする。
140. 並べたものがまがっていると気にいらない。
141. おもちゃの並べ方など決まったルールがある。
142. テレビは見ていなくてもつけていないと気がすまない。
143. テレビは決まったチャンネルだけを見る。
144. 違った道を行こうとするとワーワーぐずる。
145. 道順はいつも決まっていないと泣く。
146. 都バスの経路、行き先などをよく覚えている。
147. いつも同じ順序で行動したり、ものを扱ったりする。ルールがあるようである。


【感想】 
以上の項目は、「F’」と言う限り、(本来)“正常発達像”の「F.母子関係が他の人にも広がり社会化されてきていることを示す行動」の「裏返し」であるはずだが、はたして、母子関係が他の人にも「広がらなかった」「社会化されなかった」ために生じる症状であろうか。著者は、あえて「環境条件や情報の変化に対して臨機応変に対応する能力が低いため、物事が一定していることを好み、それが変化するといらだちを示す症状」と説明しているが、その「変化への対応能力」と「母子関係の社会化」との間にはどのような関連性があるのだろうか。例えば、偏食の原因を子どもの側(味覚・触覚・嗅覚の過敏、又は鈍感)に求めるか、母親の過度な「不安」(食品添加物やアレルギー、バイ菌恐怖など)に求めるか・・・。また、「物事が一定していることを好む」のは、母親を「安全基地」と感じられない子どもの側の「不安」(好奇心の不足)が先か、「安全基地」を提供できない母親の「かかわり方」に問題があるか・・・。意見の分かれるところであろう。もし、自閉症の要因が本人の側にあるとすれば、まさにこの「F’」の項目群の中に、その証しが隠されているのではないか、と私は思った。


【要約】
G’通常、人へのあこがれ、模倣などを通してひとりで身につく動作が覚えられないでいることを示す症状。
148. おんぶされても、膝を立てていたり、脚をつっぱっていたりする。
149. 笛を吹くことができない。
150. はしで食べない。手づかみにする。
151. 絵を描く、ハサミを使って切り紙をするなどの活動ができない。
152. 三輪車をこぐことができない。
153. ブランコをこぐことができない。
154. うがいができない。
155. 鼻をかむ動作ができない。
156. 話し方にぎこちなさがある。リズムやメロディーが不自然。
157. 声が非常に大きい。調節できないような感じ。
158. 構音の誤りが独特である。 


【感想】
  以上の項目は、子どもが周囲の人に「注目」、それを「お手本」として「あこがれ」「マネしよう」としてできるようになることが「できない」という症状である。子どもの側に聴覚障害、視覚障害、運動機能障害などの「身体障害」がある場合には、当然「支障」が生じるだろう。しかし、そうでない場合、まず「周囲の人に注目するか」「あこがれているか」「マネしようとするか」が重要なチェックポイントになる、と私は思う。このことについて昔綴った(私の)拙文は以下の通りである。


〈赤ちゃんがスヤスヤと眠っています。そんな時、赤ちゃんの身の回りに並べられたおもちゃの数々をながめてみて下さい。そのひとつひとつのおもちゃを見ているだけで、お母さんの脳裏にはさまざまな赤ちゃんの情景が浮かんでくることでしょう。そう言えば、最近、赤ちゃんがあまりそれらのおもちゃで遊ぼうとしなくなったような気がしませんか。どちらかというと、何の変哲もない湯飲み茶わんのふたとか、お母さんのくしや口紅、財布などをいじっているようなことが多くありませんか。もしそうだとしたら、それは赤ちゃんにとって大変な進歩なのです。
 つまり、与えられた自分向きのおもちゃよりも、お母さんが毎日ひんぱんに使いこなしている品物の方に魅力を感じはじめてきたのです。その背後には、「お母さんに対する愛着と憧れ」という気持ちが秘められています。「大好きなお母さんの持ち物をボク(ワタシ)も触ってみたい」。それは、周囲にあるさまざまな事物の中から、お母さん(人間)に関する物に特別な関心をもちはじめたことになり、気持ちのうえで一歩「人間の生活」(文化)に近づいた証拠なのです。「学ぶ」ということばの語源は「まねをする」ことだといわれていますが、今、赤ちゃんはその「まねをすべき」対象を、他の事物から区別して選択することができるようになってきたのです。これは素晴らしいことです。まさに「学ぶ」ことの第一歩といえましょう。
 この頃の赤ちゃんをよく観察すると、お母さんのしぐさや動作を「じっと目を凝らして見つめている」ことがあります。また、「ニギニギ」「オツムテンテン」などの簡単な動作のまねもできるようになります。その「まね」こそが、幼児期全体を通しての「学ぶ」ことの基礎になるのです。
 赤ちゃんは今、どんなまねができますか。かぞえてみて下さい。まねの種類と範囲が多ければ多いほど、赤ちゃんの「学ぶ」ことは確実なものになっていくのです。
 では、どのようにまねの種類と範囲をふやせばよいのでしょうか。また、その時に気をつけなければならないことはどんなことでしょうか。
 まず第一に大切なことは、「お母さんが赤ちゃんのまねをすることからはじめなければならない」ということです。事実、どのお母さんもそうしているはずです。赤ちゃんが手を振りまわした拍子にテーブルにぶつかり、音が出ました。お母さんもテーブルをたたきます。それを見た赤ちゃんがおもしろがって、また、たたきます。こんな情景はどこでも見られるでしょう。赤ちゃんが声を出しています。「バババババー」。お母さんがまねをします。「バババババー」。赤ちゃんが、また、そのまねをします。「バババババー」。こんな繰り返しがいつまでも続いて、お母さんの方がくたびれてしまうこともあるでしょう。このように、赤ちゃんにまねをさせようとするのではなく、まずお母さんが「まねをする」ことによって、自然に、「結果として」赤ちゃんが「まねをしてしまう」ような方法がよいのです。そのためには、すでに書いてきたような「赤ちゃんとお母さんの楽しいやりとり」が基盤となって、「お母さんを心待ちにしている」ような赤ちゃんの気持ちが前提となっていることはいうまでもありません。
 次に大切なことは、赤ちゃんが今やろうとしていること、できることをよく調べておき、その範囲内でまねをするようにしむける、ということです。近所の赤ちゃんができるからといって、今、それができるとはかぎりません。赤ちゃんにとって、できないことをまねさせられることは、プラスにはなりません。むしろ「まねをすること」そのものに興味をうしなってしまうおそれがあります。
 また、いつまでたっても、まねの種類と範囲が拡がらない、同じことばかりやっている、といって心配になるお母さんがいるかもしれません。しかし、そのことをどれくらいやればよいかは、赤ちゃんが決めることなのです。まだ、そのことを続けている限り、赤ちゃんにとっては意味のあることなのであり、「学ぶ」に価することなのです。同じことばかりやっているのは、赤ちゃんにとってまだそのことが十分に満足できないでいるからです。
お母さんの心配が、それに一層拍車をかけて中途半端な満足感しか与えていないため、同じことばかりしかやろうとしない例が、意外に多いのです。
 何でもお母さんのやることをまねしようとして失敗する、それを私たちは「いたずら」とか「粗相」とかいいます。しかし、そのことで赤ちゃんは「学んで」いるのです。お母さんの知らないうちに、大事な家具にクレヨンでなぐり書きをしてしまった、本当にいたずらで困ります、などという話はよく聞きます。しかし、「四つになるのにまだお絵かきができないのよ」という心配よりは、どれだけ素晴らしいかわかりません。
 赤ちゃんの「いたずら」を禁止してはいけません。危険な思いや財産の損失は、お母さんのちょっとした「心づかい」で十分に防げるはずだからです〉。(2014.5.2)