梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症治療の到達点」(太田昌孝・永井洋子編著・日本文化科学社・1992年)精読(14)・Ⅲ章 「太田のStage」評価法・4

【要約】
3)Stage評価の臨床的検討
・我々は、臨床的な側面での有用性に関しても臨床研究を行いつつ、デイケアの治療教育の実践の中で深めてきた。ここでは、Stageの有用性を確認したり、さらに深めるのに役立った臨床研究を紹介する。
⑴StageiⅠの検討
・4症例を通してまとめた研究(仙田ら,1984)からStageⅠの治療教育の取り組みの内容および問題点を示す。
・4症例は全員5歳、重度な遅滞をもつ自閉症の幼児、この子たちに対してStageⅠの治療教育のねらいと課題内容を盛りこんだプログラムにそって、1日5時間、週2日の治療が行われた。この症例から以下のことを学んだ。
①1年間の治療教育の終了後、いずれの子どももStageⅠの段階にとどまっており、「乳幼児精神発達質問紙」の初期のシンボル機能に関係する項目および象徴遊びの面から見てもほとんど変化が見られなかった。(シンボル表象機能の発達の障害が重篤であることを示している)
②この子どもたちはStageの変化は見られなかったが、状況に即した言葉かけを理解して行動できるようになり、課題や場面の意味に気づきはじめ、働きかけに対する拒否がなくなり、大人に関心をもち目的的なかかわりが増した、などの発達的な変化が認められた。(発達を促進するための治療教育が必要であり、治療の効果が期待できる)
③4名の子どもたちは同じStageⅠといえども、働きかけの内容と配慮を2名ずつによって変える必要があり、特に、一方の2名は働きかけに細かい工夫が必要であった。(2つのグループには認知発達の違いのあることが推察された)
⑵StageⅠの下位段階
・同じStageⅠの幼児期の子どもの中で、認知発達が違うと推定された3症例を通して幼児自閉症の認知発達指針の再検討をまとめて報告した(斎藤ら,1985)。
・子どもの示す人への主な要求手段によって、認知発達の水準がさらに3段階(クレーン現象しか示さない、クレーン現象以外の手段を持つ)に分けられることを再確認し、各々の段階での発達課題をまとめた。
・StageⅠの中に、StageⅠ-1、StageⅠ-2、StageⅠ-3の下位段階を設定した。
⑶StageⅢ-1の検討
・StageⅢ-1(物の用途の理解)からStageⅢ-2(比較の概念)に移行するために、どのような課題ができるようになればよいか、を検討した。
・LDT-4(空間関係テスト)への反応のしかたで、StageⅢ-1の子どもたちは、認知発達の観点から2つに分けられる。すなわち「ボタンを箱の上に置いてください」「ハサミを積木のそばに置いてください」のどちらか一方の課題で、指示された2つの物を何らかのかたちで関係づけようとする場合(“関係づけ群”)と、2つの物を正しく取れない、あるいは反応しないなどの場合(“非関係づけ群”)である。この2つのグループについて比較研究をした(太田ら,1989)結果、IQ、有意味語の出現状態、描画、象徴遊びなど、いずれも“関係づけ群”のほうがより高次の段階にあることが明らかになった。(“関係づけ群”年齢6歳7か月、発達年齢4歳1か月、発達指数62、言語領域発達年齢3歳8か月、言語領域発達指数55:“非関係づけ群”年齢6歳0か月、発達年齢3歳0か月、発達指数49、言語領域発達年齢2歳3か月、言語領域発達指数35 *数値はいずれも平均)
・この視点は、我々がStageⅢ-1の自閉症児の治療教育を行うときの重要な目安になっている。
⑷Stage評価と遊びの発達
・これまでの研究(亀井ら,1988)によると、自閉症児は象徴遊びの出現が乏しいこと、象徴遊びの発達とStage評価との間には明瞭な関係が示されている。
・StageⅠ:象徴遊びなし5名、象徴遊びはないが再現遊びがある3名
・StageⅡ:象徴遊びはないが再現遊びがある5名、象徴遊びの芽生えが認められる2名
・StageⅢ-1:象徴遊びはないが再現遊びがある1名、象徴遊びの芽生えが認められる3名、象徴遊びがある1名
⑸Stage評価とこだわり行動
・DSM-Ⅲ-Rでは、こだわり行動(常同行動)を5項目にまとめている。①常同的な身体運動、②物の部分への持続的な没頭、③環境のわずかな変化に対する激しい苦痛、④通常の手段への過度の執着、⑤興味の範囲の限局と狭い興味への没頭。
・仙田らの臨床研究(1990)によれば、①は認知発達によって必ずしも減弱しない、②から⑤の出現状態は、Stageの段階によって明確な違いが認められる、という結果であった。
⑹Stage評価と自傷行為
・仙田らの研究(1988)は、明確な自傷行為を伴う2名の自閉症児(幼児)について、治療教育の経過を追ってまとめたものである。1名はStageⅠ-2の段階にあり、有意味語はなく、要求手段はクレーン現象のみ、遊びは物をヒラヒラする感覚遊びのみ、身辺処理はほぼ全面介助、頭の両側面をげんこで打ち青あざになるほどの自傷行為があった。もう1名はStageⅡの段階にあり、発語はまれに単語を発する程度であったが、ひらがなやカタカナを読むことに強く固執、象徴遊びは見られず、身辺処理はかなりの介助を要した。手の甲が堅く盛り上がるほどの手咬みの自傷行為があった。
・自傷行為が2症例に共通して起こった状況は、子どもの発達水準から見て高すぎる課題が与えられた場合、子どもの直接的な要求が阻止された場合であった。症例1では、原因が了解できない自傷行為が多く認められていたこと、新しい場所への通院、通所など物理的な環境の変化があったとき増強していたこと、気候の不順や不眠などによる身体的な不調のときに多く認められた。症例2では、絵本の文字を読むという強い同一性の保持の欲求が崩れたとき最も頻繁に自傷行為が認められた。また、親が病気により精神的に不安定な状況に陥ったときも自傷行為が増強した。
・自傷行為は脳機能障害による生物学的な要因によるところが多いと考えられるが、ここで示された所見から、自傷行為の起こってくる状況は認知発達の水準に依存し、その予防と減弱のためには認知発達によって対処法を変える必要があること、認知発達に適したねらいと働きかけ、留意点が必要なことが示されていた。
⑺Stage評価とCGAS(全般的重症度評価)
・自閉症に対する治療や治療教育の有効性を検討するためには、全般性の重症度の観点からの評価が必要である。そこで我々は、全般性の重症度尺度としてCGAS(Children's Global Assesment Scale)の意義と有用性を検討した(永井,1989)。
・StageⅠの子どもではCGASは非常に低い価であったが、StageⅡ以上では相関が認められなかった。
・CGASは、MAやIQとの相関は認められず、認知能力とは別の側面を測っていると考えられた。
・これに対してSM社会能力検査のSAやSQとは高い相関が認められた。
・これらの結果よりCGASを自閉症児の全般的評価として用いることは、一応の妥当性と有用性があると考えられた。
・現在、我々のデイケアでは、治療者から見た全般的な適応度の評価としてCGASを用いている。
3)Stage別の発達課題の検討
・1983年から1986年までの研究により、Stage別に系統化してきた課題と教材は、ほぼ適切であると考えることができたが、以下のことが問題点としてあげられた。
①StageⅡの発達課題は、やや難しすぎる。
②StageⅠの下位段階を考慮する必要がある。
③StageⅢ-1の子どもたちは、特定の教材では“比較”が理解できたように見えても、概念の獲得につながらず、治療者側が課題を呈示したり評価するときに、その点を留意する必要がある。
・Stage別の発達課題は、治療者側にとっては子どもの発達レベルに即した課題を偏りなく選択して治療教育を行うことができること、子どもにとっては発達の最近接領域の課題を呈示されるために内発的な動機づけがかかること、の両面から非常に有用であることが改めて再確認された。
4)TEACCHの課題との比較
・1989年にTEACCHのDr.Schopler, Dr.Mesibovを招いて「自閉症の治療教育の評価に関するシンポジウム」を開いた。そこでの最も大きな討論点は、幼少時から個人の発達のレベルに合った適応行動の獲得を治療の目標にし、環境側を調整することに力点を置く必要があるとするTEACCHの考え方と、発達の障害に働きかけて自閉症児自身に少しでも柔軟に適応できる力をつけていくことが重要であるとする我々の考え方との相違にあった。しかし、太田のStage評価は、PEP(TEACCHの発達評価プロフィール)との相関は高く、相関係数は、0.92であった。
・さらにその後に、TEACCHの「発達単元」にまとめられている225の課題を太田のStage別の発達課題と比較した(亀井ら,1991)結果、以下のことが明らかになった。
①TEACCHの発達単元は、知覚、微細運動、目と手の協応など視覚運動系の課題が多く、言語課題の数は少なかった。太田のStage別発達課題では言語に関する課題数が多く、課題の内容の点で大きく違っていた。②TEACCHでの「発達単元」225のそれぞれの課題を太田のStageにあてはめて分類すると、半数(112課題)はStageⅠに相応する課題であり、Stageが上がるごとに相応する課題数は少なくなっていた。太田のStage別課題はStageが高いほうが課題数が多くなり、発達的な観点から見た課題構成の点でも相異があった。TEACCHでは、年齢の低いうちから一貫して家庭や地域社会で直接役立つスキルの獲得を目標にしている。これに対して、我々の小児部では、自閉症の発達の障害に働きかけて認知と情緒の発達を促すことを重点にしつつ、将来のより広い適応行動の獲得をめ目指すことに置いている。このような、発達課題の内容と課題構成の相異は、我々とTEACCHにおける治療教育の基本的な考え方の違い(太田,1991;永井,1991)の一部を表しており、興味ある結果であった。


【おわりに】
・我々は、これまでの研究と臨床経験を蓄積することによって、以下のような点に努力してきた。①Stage別のねらいと課題リストをさらに整理し充実させること。②対人・コミュニケーションについてのねらいと課題を開発すること。③課題を組み合わせた有効なプログラムの組み方を検討すること。④認知発達を促すための学習を含めた治療全体の環境をいかに構造化するかを検討すること。⑤治療効果を上げるために家族との連携を深めて般化を図るためのプログラムを作成すること。これらの課題は少しずつ解決されてきているが、まだ不十分であり、多くの課題を残している。(永井洋子・太田昌孝)


【感想】
 「ここでは、Stageの有用性を確認したり、さらに深めるのに役立った臨床研究を紹介する」と述べられているが、その《有用性》がどこのあるのか、正直言って、よくわからなかった。まず、「⑴StageⅠの検討」では、4症例(全員5歳児)に対して行われた1年間の臨床教育の結果、「終了後に、いずれの子どももStageⅠの段階にとどまっており、乳幼児精神発達質問紙の初期のシンボル機能に関する項目、および象徴遊びの面から見てもほとんど変化が認められなかった」とある。しかし、「状況に即した言葉かけを理解して行動できるようになり、課題や場面の意味に気づき始め、働きかけに対する拒否がなくなり、大人に関心を持ち目的的なかかわりが増した、などの発達的な変化が認められた」。にもかかわらず、「StageⅠの段階にとどまっている」ということであれば、その《発達的な変化》はStage評価に反映されていないことになる。つまりStageⅠの有用性が疑われた。そこで著者らは、StageⅠをさらにⅠ-1、Ⅰ-2、Ⅰ-3の3段階に細分した。「そして、治療教育のねらいを3段階に分けて、各々の段階での発達課題をまとめた」とあるが、その詳細は述べられていない。おそらく(人への要求手段として)Ⅰ-1はクレーン現象なし、Ⅰ-2はクレーン現象のみ、Ⅰ-3は指さしあり、ということになるのだろうが・・・。
また、「⑶StageⅢ-1の検討」では、「ボタンを箱の上に置いてください」「ハサミを積木のそばに置いてください」という課題に対する子どもの反応には2つの物を関係づけようとする“関係づけ群”と、そうしない(できない)“非関係づけ群”があり、2グループには段階の「差」があることについて述べられているが、「(その)視点は、StageⅢ-1の自閉症児の治療教育を行うときの重要な目安になっている」というだけでは、「StageⅢ-1」という評価自体の有用性は(私には)感じられなかった。(しかし、以後の章で明らかになるかも知れない)さらに「⑷Stage評価と遊びの発達」では、自閉症は言語発達のみならず、遊びに代表されるシンボル機能も障害されることが確認された。「⑸Stage評価とこだわり行動」では、常同的な身体運動は認知発達によって減弱しない、その他のこだわり行動は、Stage段階によって明確に違いが認められる。「⑹Stage評価と自傷行為」では、自傷行為の起こってくる状況は、認知発達の水準に依存する。などと述べられていたが、そのこととStage評価の有用性がどのように結びつくのか、その詳細が、私にはわからなかった。(以後の章を期待したい)いずれにせよ、「3)Stage別の発達課題の検討」の結果、「Stage別の発達課題は、治療者側にとっては子どもの発達のレベルに即した課題を偏りなく選択して治療教育を行うことができること、子どもにとっては発達の最近接領域の課題を呈示されるために内発的な動機づけがかかること、の両面から非常に有用であることが改めて再確認された」と述べられているので、そのことがStageの《有用性》に違いないと思わざるを得なかったが、肝心の「中身」が、まだ私にはわからなかった。この節では、他にCGAS(全般的重症度評価)の妥当性と有用性、TEACCHの課題との比較も述べられていたが省略する。【おわりに】で述べられていた(著者が当面する)5つの課題は、よくわかった。とりわけ、「対人・コミュニケーションについてのねらいと課題を解決すること」「家族との連携を深めて般化を図るためのプログラムを作成すること」の結果がどのようなものであったか、私は興味津々である。(2014.1.18)