梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

相模原殺傷事件と「優生思想」

 相模原殺傷事件から半年が過ぎ、またまた様々な論議が蒸し返されているが不毛としか思えない。民主主義を標榜する社会において、事件を引きおこした容疑者の主張・言い分につゆほどの道理・真理はないからである。容疑者の「優生思想」は、一顧だに値しない代物であり、論議するほどの価値はない。にもかかわらず、「社会にとって障害者は不要な存在なのか」などという問いかけが溢れている。もとより障害者など、この社会に存在しない。存在するのは人間であり、人間の価値はすべて等しい。それが民主主義の道理であり真理である。
 問題は、容疑者の「優生思想」自体ではなく、容疑者が「障害者施設」の職員であったこと、容疑者は教員志望だったこと、容疑者の両親は教員であったこと、を踏まえて、①容疑者は、なぜ「優生思想」という価値観を持つに至ったか、②なぜ、社会は容疑者の犯行を許してしまったかという二点に絞られる。
 その答は単純・簡単である。①は、社会全体に(未だに)「優生思想」が蔓延しているからである。「優生保護法」は「母体保護法」へと変わったが、(産前の)断種は容認されている。義務教育において「特別支援教育」(以前は特殊教育)という名の下に「障害児」(以前は特殊児童、異常児など)というレッテルが生み出され、「健常児」と区別されている。
 人間の能力は千差万別だが、その違いを超えて社会を構成する。その中で相互理解、連帯、協力という理念を学ぶ。その単純・簡単な原理が実現されていない。学校教育の原理は「競争」でありランキングが尊重されるからである。容疑者は学校教員である両親から離脱、教員志望も挫折した。いわば敗者として「施設職員」となった。その鬱積が「優生思想」を容易に受け入れたのだろう。同時に、彼は自らを「精神障害者」に位置づける。犯行の責任能力が無い立場として「精神障害者」を装い、無罪放免を確信している。(優生思想が蔓延している)社会は、彼の目論みを成功裡に導くかもしれない。
 ②は、社会が容疑者を「差別」したからである。彼の言動に誰一人真正面から向き合わなかったからである。彼が衆議院議長に犯行予告の手紙を渡したのが2016年2月、その実行に及んだのが7月、その5カ月の間に、衆議院職員、施設職員、警察官、病院職員、医師、友人等々、多くの人と接触したが、誰もが「まさか犯行には及ぶまい」と油断したに違いない。措置入院先の専門医師は「大麻精神病、非社会性パーソナリティー障害、妄想性障害、薬物性精神障害」などというレッテルを貼っただけであった。犯行直前に会った友人は「一緒にやろうと誘われたが断った」と言う。かくて容疑者は孤立し、誰からも阻止されることなく、妄想を実現できたのである。
 以上①と②に共通するのは「差別」、それを許容する優生思想、純血主義、ファシズムへの土壌が、今(私たちの中に)培われているということを確認し、そのことと真正面から向き合う姿勢が求められているのだ。
 あらためて、《もとより障害者など、この社会に存在しない。存在するのは人間であり、人間の価値はすべて等しい》と、いつでも、どこでも、誰に対しても断言できるか。今、私はそう自分自身に問いかけている。
(2017.1.27)