梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「大衆演劇」雑考・5・大衆演劇の「フィナーレ」

大衆演劇の第三部(または二部)は舞踊・歌謡ショー、そのラストを飾る「フィナーレ」は、それぞれの劇団が、おのがじし趣向を凝らし、文字通り「百花繚乱」といった景色・風情を醸し出している。かつて、「劇団ママ」を率いていた女座長・若水照代は、純白のドレスに身を包み、客席後方の暗がりから、静かに登場、バックには「ある女の詩」(詞・藤田まさと、曲・井上かつお)のイントロが流れ、何ともやるせない、極め付きの「歌声」が響き始める。「雨の夜来て、独り来て、私を相手に飲んだ人、私の肩をそっと抱き、苦労したねと言った人、ああ、あなた、遠い遠い日の、私のあなたでした」。当時(昭和40年代後半)、私は、この名曲が美空ひばりの持ち歌であるとはつゆ知らず、若水照代のオリジナルだとばかり思いこんでいたのであった。そこには、夫・長谷川正二郎を亡くしたばかりとはいえ、失意にくれている暇などあろうはずもなく、直ちに「女手一つで」劇団を「健気に」継承していかなければならない旅役者の思いが込められていて、「感慨一入」の出来栄えであった。かくて、「劇団ママ」の「フィナーレ」は、まさに「この一曲」、来る日も来る日も「ある女の詩」で締めくくっていた(観客もまた、その一曲を待っていたことは言うまでもない)のは「お見事!」という他はない。爾来40余年、斯界の舞台模様は大きく「様変わり」、宝塚歌劇「もどき」のレビューあり、大歌舞伎、新国劇のクライマックス(場面)あり、太鼓ショーあり、三味線ショーあり、といった按配で、多種多様な演出が試みられている。私は、これまで90余りの劇団を見聞して来たが、印象深い(忘れられない)「フィナーレ」を列挙すれば以下の通りである。
①「南條光貴劇団」《龍神の舞》:赤、緑、黄、三色の龍(ぬいぐるみ)が、舞台狭しと縦横無尽に「絡み合い」、乱舞する。通常は、「おどろおどろしく」、(眼光を発したり、口から火を吹いたりして)荘厳な景色を描出するのが定番だが、この劇団の舞台模様はさにあらず、眼の表情は「円ら」で愛らしく、舞の所作も「コミカル」で「健康的」、老若男女を問わず思わず手を打って喜びそうな場面の連続であった。以後、この劇団の舞台を見聞し続けたが、《龍神の舞》を拝見できたのは、後にも先にも1回だけ、私にとっては「幻のフィナーレ」となってしまった。
②「劇団竜之助」《極道の妻たち》
前の舞台は、「人間」という外題の、重厚な「芝居」で、観客の面々は、その重たくのしかかる、シリアスなテーマに「落涙」「沈思黙考」していたのだが、「フィナーレ」の様相は一変、その「重たさ」を一気に払拭するような「痛快ドタバタ喜劇」模様で、それほど多くない観客の「笑顔」と「笑い声」が劇場を覆い尽くした。内容は、単純。「岩下志麻」然(女形・和装)とした、大川竜之助が、柄の悪い子分連中を引き連れて、今様の旅行鞄(キャリー・ケース、実は老人用の買い物籠)を引きながら、颯爽と登場。空港で待ち伏せした抗争相手の組員と大立ち回り、初めは匕首で、次にはピストルで、次々と敵方を倒していったが、何を思ったか、子分の組員まで射殺、最後は自分の頭まで打ち抜いて全員が死亡!という幕切れであったとは、意外や意外・・・。その「ナンセンスさ」「バカバカしい」風情は、笑う他はなく、抱腹絶倒の「超一級品」であった、と私は思う。とりわけ、「芝居」の余韻とのコントラストが鮮やかで、文字通り「トラジ・コミック」(悲・喜劇的)な舞台を大いに堪能できたのであった。
③「鹿島順一劇団」《刃傷松の廊下~忠臣蔵》&《人生劇場》&《韓国ショー珍島物語》
 歌謡浪曲をバックにした「舞踊劇」と「組舞踊」。「舞踊劇」の出来栄えは、1時間の芝居(「切り狂言」)にも匹敵する。ところどころに科白も挿入されるが、基本は「表情」と「所作」だけで演じる「無言劇」だが、観ているだけで、長編の芝居を満喫したような「うっとりしてしまう」場面の連続である。俗に言う「舞踊絵巻」とは、このような舞台模様を指すのであろう。《刃傷松の廊下》の歌声は、責任者・甲斐文太が担当、浅野内匠頭・杉野十平次に扮した春大吉、吉良上野介に扮した蛇々丸、大石内蔵助に扮した花道あきら、立花左近に扮した甲斐文太、俵星玄蕃に扮した三代目鹿島順一の「艶姿」を、私は忘れることができない。《人生劇場》では、吉良常・甲斐文太の「渋さ」を筆頭に、飛車角・三代目鹿島順一の「男ぶり」、おとよ・春日舞子の「色香」、宮川・春大吉の「崩れた二枚目ぶり」が、舞台の景色を鮮やかに彩る。とりわけ、飛車角とおとよ、おとよと宮川の「絡み」が(無言のうちに)描き出す「人間模様」は絶品で、私の涙は止まらない。出所した飛車角を出迎え、吉良常がそっと差し出すのはタバコではなく「ぺろぺろキャンディー」、それを二人でしゃぶりながら、男の交情を温める風情も「粋の極致」、とどめは大詰め、宮川とおとよに裏切られた飛車角が、お先真っ暗、絶望に満ちた声音で「これから、どうすればいいんだろうか?」と吉良常に問いかける。吉良常、しばし瞑目、おもむろに口を開いたかと思いきや、突然、表情を崩して「そんなこと、ワシャ、シラン!」と遁走する幕切れも、「お見事!」。男女の葛藤など、誰にも解決できない、「男心は男でもワカラナイ」とあきらめる他はないからである。さて、《韓国ショー・珍島物語》、甲斐文太の(「釜山港に帰れ」「カスマプゲ」)歌声(舞・春日舞子)に続いて、音曲は天童よしみの「珍島物語」(詞・曲・中山大三郎)に変わる。それぞれが色鮮やかなチョゴリを身につけ、女形の組舞踊を華麗に展開する。各自が手にする大扇の色彩・模様には、目の覚めるような「甘美さ」が漂い、それを重ねあわせ、様々につなぎ合わせる造形美が、(バラバラに引き離された私たちの)「心を一つにする」ことを暗示する。中山大三郎が詞・曲に託した「(人類)愛」の象徴が、いとも鮮やかに「結実化」している舞台なのである。その詞にいわく「海が割れるのよ 道ができるのよ 島と島とが つながるの こちら珍島から あちら茅島里まで 海の神様 カムサハムニダ 霊登サリの 願いはひとつ 散り散りになった 家族の出会い ねえ わたしここで 祈っているの あなたとの 愛よふたたびと 遠くはなれても こころあたたかく あなた信じて 暮らします そうよいつの日か きっと会えますね 海の神様 カムサハムニダ ふたつの島を つないだ道よ はるかに遠い 北へとつづけ ねえ とても好きよ 死ぬほど好きよ あなたとの 愛よとこしえに」そうなのだ、「願いはひとつ、散り散りになった 家族ので出会い」、「そうよいつの日か、きっと会えますね」「ふたつの島を つないだ道よ はるかに遠い 北へとつづけ」、そうした声が、踊り手(三代目鹿島順一、甲斐文太、春日舞子、春夏悠生、赤胴誠、幼紅葉)の一人一人から聞こえてくるようで、舞踊・歌謡ショーの「フィナーレ」としては最高級の作品である、と私は思う。
④「玄海竜二一座」《ヤットン節》
私がはじめて「ヤットン節」の舞台を拝見したのは、平成22年8月、大阪・朝日劇場であった。当時の感想は以下の通りである。〈今日の舞台の極め付きは、何と言っても「舞踊ショー」大詰めの「ヤットン節」。その景色、面白さはまさにピカイチ。座員全員が舞台に整列、玄海竜二を中心に、おのがじし勝手な「お面」を身につけて、あたかも「ラジオ体操」のごとく整然と踊りまくる。その一挙一動一頭足がピタリとそろえばそろうほど、「お酒飲むな、酒飲むなの、御意見なれど・・・」で始まるナンセンスな歌詞が生き生きと冴えわたってくるから不思議である。その、「可笑しく滑稽な」空気に、もいわれぬ「艶やかさ」が加わるといった趣で「お見事!」という他はなかった。昭和20年代、一世を風靡した未曾有のナンセンスソング「ヤットン節」は、ほぼ60余年の時を経て、今まさしく甦り、平成の庶民に大きな「元気」「勇気」をもたらしてくれたのだ。その「おこぼれ」を存分に頂いて帰路に就いた次第である〉。玄海竜二は、その(ほぼ)1年後(平成23年7月)、東京にも遠征、浅草木馬館で「半月間」の興行を展開中である。そこでも、「フィナーレ」では「ヤットン節」の名舞台を披露、あらためて、再見聞した次第だが、その面白さ、素晴らしさが「色あせる」ことはなかった。役者一同が被る面は、「一様に」笑っている。それを観ている観客もまた、「一様に」笑っている。幕が開くと同時に、劇場全体が「笑いの渦」に巻き込まれる、といった按配で、なんとも幸せな気分に包まれるのである。日頃の憂さを晴らし、明日への元気を養うのが「娯楽」の真髄だとすれば、この「フィナーレ」は、まさに「打って付け」、文句なし、理屈抜きに、楽しめる。あたかも、40余年前、千住寿劇場、十条篠原演芸場の「フィナーレ」に登場した、「劇団ママ」・若水照代座長の艶姿と同様に、「待ってました!日本一!」、何度観ても心底から納得・感動できる「逸品」なのである。劇団にとって、「フィナーレ」は、「明日への架け橋」、全国津津浦々の舞台では、今日もまた、幸せな明日を目指して、「百花繚乱」の景色が繰り広げられているのである。(2011.7.21)