梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

東日本大震災・《今、問われているモラル》

 あの「東日本大震災」の光景を目の当たりにして、東京都知事・石原慎太郎氏は「天罰だ、いっぺん津波に我欲を洗い流してもらった方がいい」と(か何とか)言って世の顰蹙を買い、後日、(無様にも)その言辞を謝罪したそうだが、私は彼の「物言い」にそれほどの違和感は感じなかった。人々がこれまで作り上げてきた「人工物」を、次々と「なぎ倒し」「呑みこんで」いく津波の威力を呆然と眺めるほかはなかったが、自然に対して人間はいかに無力であるかを思い知らされたわけである。その力を甘く見て、(自然をコントロールできるなどと)思い上がってきたことを反省しなければならない。まさに「天罰が下った」と言ったところで、言い過ぎとは思われなかった。そんな時、次に私が思ったことは、「この天罰によって、何が、どれ位、失われたのだろうか」ということである。命(家族)、個人財産(家屋をはじめ、衣食住に関する生活用品)、社会機能(ライフライン、交通、通信、流通)等々・・・。そして、あることに気がついた。失われた物量の程度は、これまで所有していた物量の多さに比例する。家族の人数、財産の量が多ければ多いほど、失われたものも多くなり、悲しみ、喪失感が増幅されるということである。では、今回の災害によって、失われたものが最も少なかった人は誰か。皮肉にも(という言葉が適切であるかどうかはともかく)、「家族をもたなかった人」「財産を持たなかった人」ということになるのではないか。今日の東京新聞朝刊(21面)には、以下の記事が載っている。〈「本音のコラム」(宮子あずさ・看護師):『生活支援とモラル』:ある避難場所で炊き出しのボランティアに参加した知人から、こんな話を聞いた。炊き出しの時間になると、長年の路上生活者と思しき人がやって来る。その場に居合わせた誰もがそれに気づいたが、「この人も困っているのだろうし」とあえて注意はしない雰囲気であったという。被災者以外の人を本気でより分けようとするなら、なんらかの形で身分を証明してもらうしかない。しかし、多くの被災者が身ひとつで避難した現実を思えば、身元の確認を求めるのは気が引けるのが当然。最終的には、必要な人に支援がまわるなら・・・と、多少対象外の人がまざっても大目に見るのが常識的な判断ではないだろうか。(中略)生活支援は常に、適応のある人のみを的確に選別した上で、簡単な手続きで提供するように求められる。しかし、適応を絞るためには、手続きが煩雑になるし、簡略化すればザルになる。ここで問われるのは人々のモラル。適応外の人が支援を求めないならば、もっと気前の良い支援が可能になるはずなんだよね〉。ここでいう「長年の路上生活者と思しき人」とは、「家族をもたなかった人」「財産を持たなかった人」の典型であり、「今回の災害で失われたものが最も少なかった人」であることは間違いない。さればこそ、「その場に居合わせた誰も」は、その人が、はたして「被災者」と言えるのかどうか戸惑ったということだろう。「この人も困っているだろうし」という雰囲気であったそうだが、はたしてその人は困っていたのだろうか。たしかに困っていたと、私も思う。ただし、困っていたのは「食うこと」だけ、それ以外は日常が、被災者、避難者と同様なのだから、格別に 「困っている」ことなどあるはずがない。コラムの筆者に従えば、「長年の路上生活者と思しき人」は、「被災者以外の人」「対象外」「適応外」、その人が支援を求めない(炊き出しの時間にやって来ない)ならば、「もっと気前のよい支援が可能になるはずなんだよね」ということになる。そのためには人々のモラルが問われる。さて、そのモラルとは何か。対象外、適応外の人が支援を求めないモラル?、「この人も困っているのだろうし」とあえて注意はしないモラル?愚見によれば、自然の前にあくまで謙虚であること、我欲へのこだわりを捨てること、清貧に甘んじること、そのために「長年の路上生活者と思しき人(々)」から生き様を学ぶことができるかどうか、今、問われているのである。
(2011.5.30)