梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・フライトレコード(7)

    喫茶店をでると、カナリヤ色の電車が走り出した。あれはボクだ。ボクにちがいない。センセー。生活について教えてください。知ってしまったことに耐えることではない。愛について教えてください。違うんだよ。愛してなんかいねえよ。愛しています。おかしいなあ。吐き気がするのはコーヒーのせいだ。一時間もすれば、ボクはまたシンジュクへ帰ってくる筈だ。明日、いやもう今日二時に、ボクは帰らねばならない。「告別式」があるんだ。ヒトが死んで名を残すのは、トラが死んで皮を残すほど正確ではない。電車、たたかわないくるま。夜がすっかり明けたんだ。空がまたしても青いんだよ。コドモがいとしくて、もう空を飛ばない。死ぬことは思い出です。誰もボクを助けてくれるヒトはいないのに、不覚にもボクは女の子の名を呼んだ。おかあさん。ゴトゴトゴト、カナリヤ色の電車がシンジュクに帰って、それに乗った。長い寝台にねそべって、夢をみたんだ。海の中の潜水夫が、沈んだ軍艦にむかってささやく。楽にしてあげますよ。ゴボゴボ。涙が泡になって昇って行った。兵隊さんはどこにいるのですか。どこにいるのですか。答えてください。楽にさせてください。潜水夫の動揺が、高いうねりとなって浜辺の岩に衝突し、真っ白なしぶきが上がった。何もない浜辺。はてしない海の中には、はてしない兵隊さんがいない。何もない海。そんなはずはないでしょう。潜水夫は、沈んだ軍艦に向かってささやかなかった。軍艦の形をした岩に向かってささやいた。岩は答えなかった。一時間、夢をみたんだ。シンジュク。まぶしくない。
(1966.5.5)