梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・フライトレコード(6)

    コッカイギジドウマエの次はアカサカミツケである。そこにボクのコドモが後向きで立っていた。ボクはあしたの二時までに「家」に帰らねばならない筈だ。ボクは帰ることができるだろうか。くだらないと思います。坊や元気を出そうね。ボクのコドモはふりかえらずつぶやいた。気をつけ、礼。歌は二度とうたうまい。涙でサン・グラスがくもったと思ったのはやはり思いちがいで、「おでき」のために眼がかすんだんだ。ボクはどこにいるのでしょうか。地下鉄の中は、ゆでたまごの臭いがして吐き気がした。洗面器をかしてください。コドモのためにも吐かねばならぬ。生活とは、あるいは愛とは、知ることだ。そして知ってしまった哀しみに耐えることだ。恥ずかしいんだよ。コドモは生活しない。コドモは愛さない。ボクはボクのコドモを恥じる筈だ。もう女の子と会えない。会わない。バカバカしいんだ。地下鉄のお嬢さんを犯せ。ある晴れた日、そのしみわたるような青い空に向かって涙を流したんだ。それがはじまりといえばはじまりだったし、終わりといえば終わりだった。消えた。おそろしいんだよ。ジェット・ヒコーキの空中分解はボクの責任ではない。シンジュクで地下鉄をおりて、コーヒーをのんだ。夜は白々とあけなければならない。待っているのではありません。何もないのだ。それゆえ、残念ながらビートのきいたリズムは、時計でしかない。この町に住みついた生活の入り口で、おそらくボクは体を張ってやがてくる夜明けとたたかうのだろう。いけない。夜が明けてきやがった。
(1966.5.5)