梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

学校教育の「誤り」

   学校教育の「誤り」は、以下の2点に集約される。①児童・生徒の成績を評定すること、②卒業を認定し、いわゆる「学歴」を授与すること。①によって、児童・生徒は、当然のことながら、「優秀」「普通」「劣等」に分類され、それが「社会の評価」にまで敷衍される。「優秀」に分類された児童・生徒は、自尊心が満たされ、得意満面の様相だが、つねに「普通に落ちたくない」というストレスに苛まれる。「普通」の場合も同様に、「優秀」になれない苛立ちと、(油断すると)「劣等に落ちる」不安がつきまとう、さらに「劣等」は、最悪。「自分は最低だ」という自責、「どうしようもない」という絶望、「どうにでもなれ」という投げやり、さらには「優秀」「普通」に対する嫉妬、怨恨までが生じる、といった案配で、どこに分類されようが、児童・生徒の「情緒は安定しない」。本来、児童・生徒に「能力差」があることは自明であり、「できない」ことを責められるいわれはない。どんなに努力・精進を重ねたところで、「できない」ことは「できない」のである。学校はその「能力差」を認めずに、児童・生徒の成績を「一律」に評定する。成績を評定することによって(「ストレス」を加えることによって)、児童・生徒の「学習意欲」が高まると信じている。しかし、それは「誤り」である。「学習」は、「安定」「安心」に基づいた「好奇心」によって、はじめて「成り立つ」ものなのだ。にもかかわらず、学校がその「誤り」(成績を評定すること)に拘るのはなぜか。それは、学校が、一般(経済)社会からの「要請」に応えるためである。社会で役立つ人材を「選別」するためである。児童・生徒は6歳で「義務教育諸学校」(小学校又は特別支援学校)に入学する(させられる)と同時に、将来、社会の役に立つか立たないか、という観点で「選別」され、その「結果」を保護者に「通知」される。「劣等」に分類された児童・生徒は、「努力が足りない」と決めつけられる。しかし、「劣等」は、どんなに努力しても「優秀」になることはない。なぜなら、入学前の調査(就学時健診)によって、児童・生徒はすでに「優秀」「普通」「劣等」に選別されており、その資料に基づいて「学級編制」が行われるからである。例えば、「優秀」は7%、「普通」は86%、「劣等」は7%、といった具合に配分される。したがって。児童・生徒の「成績」は、学習が始まる以前から
(本人の努力とは関わりなく)決まっているのである。そうした、「からくり」のもとで、性懲りも無く、児童。生徒の成績を評定している。それが、学校教育の(最大の)「誤り」である。さらにまた、②によって、「優秀」「普通」「劣等」の烙印は、駄目を押され、「固定化」する。「中卒」よりは「高卒」、「中退」よりは「卒業」、「高卒」よりは「大卒」の方が「優秀」である、といった(いわれのない)「社会的評価」が、児童・生徒、さらにはその保護者にまでものしかかる。「学歴」が、その人物のステータスとなる。しかし、本来の勉学に「卒業」(終わり)はない。まして、義務教育は、その年齢に達すれば、おしなべて「卒業」が認定され「証書」が(履修の有無にかかわらず)授与されるのが現実である。だとすれば、そのことに、どれだけの意味があるのだろうか。「高卒」「大卒」にしても、学習課目を「本当」に履修したかどうかは、疑わしいではないか。いずれにせよ、学校は児童・生徒に「学歴」(卒業証書)を授与することによって、その人物の「社会的評価」(処遇)に荷担していることは、間違いない。そのこともまた、本来の教育とは無縁であり、学校教育の「誤り」である。「成績をつけない学校」「卒業のない学校」、それこそが「あるべき学校」の姿なのである。
(2013.1.14)