梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

温泉素描・法師温泉「長壽館」(群馬県)

今や、群馬県法師温泉「長壽館」は<国宝級>の温泉となった。
国鉄の観光ポスターで一躍有名となったが、「俗化」するどころか益々「秘湯」への道を極めつつあるのである。ここを訪れたさまざまな人々に「温泉とは何か」を教えてくれる稀有な温泉である。
 湯は透明で、浴槽の底に敷かれた玉砂利の間から、一泡、二泡と数秒間隔で沸き上がる。それは大地のやさしい息づかいにも見え、傷ついた私たちの身や心をあたたかく包み込んでくれる。飲めば卵酒に似て、都会生活で汚染された私たちの五臓六腑に沁みわたり、種々の毒物をきれいに洗い流してくれるようだ。
 温泉の真髄は「泉質」にあるが、ここではその「泉質」をさらに磨き上げようとして、ありとあらゆる工夫がなされている。たとえば、浴槽、浴室、客室にふんだんに取り入れられている木材の活用である。浴槽は木枠で大きく四つに仕切られ、ひとつひとつの浴槽には太い丸太が渡されている。それは私たちが長時間、湯に浸るための枕なのである。湯は絶え間なくあふれ、浴槽に沿って造られた排水路からすべるように流れ出ていく。見事な設計である。浴場は窓枠の鉄を除いて、床、壁、天井にいたるまで、すべてが木造建築である。浴槽の中で丸太に身をあずけ天井を見上げれば、組木細工にも似た匠の技を心ゆくまで味わうことができる。湯滴がポツリと落ちてくることなどあり得ないのである。浴場は毎朝の手入れによってどこまでも清潔に保たれているが、窓枠に張られた蜘蛛の巣を見逃すことはできない。浴場にしつらえられた行燈の灯りを求めてやってくる蛾や羽蟻をそれとなく防いでくれるのであろう。
 ふんだんに取り入れられた木材の活用は、私たちの嗅覚をなつかしく刺激する。遠く過ぎ去った日々への郷愁をあざやかに呼び起こしてくれるのである。玄関、廊下、客室にただよう独特の匂いは、まさに「日本の家」の匂いであり、幼かった日々の思い出や、懐かしい人々の面影を一瞬のうちによみがえらせてくれるはずである。驚嘆すべきは、廊下から浴場につながる、ほんの一渡り「床」である。私はこの「床」に「法師温泉長壽館」のすべてを見るような気がした。段差のある渡りを、折り曲げた木材でスロープのようにつないでいるのである。研ぎすまされた建築技術と、それを守りつづけようとする従業員の営みに脱帽する他はない。
 さらにたとえば、館内の照明である。蛍光灯は極度に制限され、浴場はもとより玄関、廊下、客室のすべてに白熱灯が使用されている。傷ついた身や心を癒してくれるのは「ぬくもり」以外の何物でもなく、裸電球のおだやかな光が館内を温かく照らし出しているのである。私たちは眩しすぎる明るさに慣れきってしまったが、「日本の家」の明るさは、陽光、月光、篝火、灯火など自然の産物によってもたらされてきたことを忘れてはならないだろう。それは自然の暗闇を前提とした明るさに過ぎないものであり、今となってはむしろ、ここの浴場のような暗さの中にこそ本当の明るさが潜んでいるのではあるまいか。客室にはテレビが備え付けられているが、そこに映し出される様々な情景が玩具の世界のように感じられて興味深い。縁側の籐椅子にもたれて、空ゆく雲を眺め、川の瀬音を聞いている方が飽きないのである。テレビの騒音など川の瀬音に見事にかき消されてしまう。 そういえば、この法師川の流れも重要な役割を果たしている。というより、この法師川こそが法師温泉の母胎なのだということを銘記しなければならない。温泉はこの川の中から湧き出ているのであり、浴場は太古の昔の河床の上に建っているのである。「川の音が気になって眠れなかった」などと言うことは笑止千万である。身も心も傷ついた者にとっては、やさしい母の声にも似た、自然の「子守歌」に聞こえるはずである。
 法師温泉のたたずまいと、「泉質」を磨き上げようとしてなされるありとあらゆる工夫は、それ自体として一つの「文化」を形成している。それは現代の機械文明、消費文化、情報化社会などといった営みとは無縁のように思われる。大自然との対峙を通して培われた「畏れ」によって生み出された創造であり、いたるところに「自然との一体化」「虚飾の排除」といった姿勢がつらぬかれている。とはいえ、単なる「自然への回帰」を志向するのではなく、むしろ逆に、自然の立場から必要最小限の現代文明を取り入れようとする事実が<国宝級>なのである。浴場の壁に取り付けられた「時計」がそのことを象徴的に裏づけている。入湯している者にとって時計は不可欠のものであることを、法師温泉は知っているのである。(1988.8.15)