梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

五歳女児の「叫び」

 《ママ、もうパパとママにいわれなくてもしっかりと じぶんからきょうよりか もっともっとあしたはできるようにするから もうおねがいゆるしてゆるしてください おねがいします ほんとうにもうおなじことしません ゆるして》


 上の文は、両親に虐待死させられた(殺された)5歳女児の「反省文」である。ママは25歳、パパは33歳、女児が必死で「ゆるして」と叫んでいるのに、この両親は許さなかった。・・・だから、私もこの両親を許さない。司法はおそらく「懲役5年~10年」の罰を科すだろう。今後10年までの間に更生し、再び社会復帰することを期待するからである。しかし、そうした制裁だけで虐待死の問題が解決するとは思えない。なぜなら、少なくともこの10年余り、虐待死のニュースは後を絶たないからである。
以下は、2006年に綴った私の駄文である。


《最近のニュースによると、生後九ヶ月の乳児を「虐待死」させた二十代の両親に、懲役五年の判決が下ったという。罪名は「傷害致死罪」ということだが、はたしてこの両親は「たった五年間」の懲役でその罪を十分に償うことができるだろうか。
 最も守らなければならない乳幼児の「生存権」が、他ならぬその保護者によって侵され
ているという現状をどのように理解すればよいのだろうか。「虐待死」は、過失でも事故でもない。殺意がなかったとすれば、「懲戒権」(親権)の濫用に当たるのだろう。しかし、子どもは親の「所有物」ではない。自立しているか否かに関わらず、「基本的人権」を付与された「社会人」(社会的存在)であることを確認したい。その人権を守るのは誰か。生後九ヶ月の被害者の立場に立ち、その「無念さ」を代弁するのは誰か。
 「虐待死」の被害者が、①みずからに何の落ち度・過失がない、②加害者に対して全く無抵抗である、③自ら身を守る術がない、という点では、あの「同時多発テロ」「地下鉄サリン事件」の犠牲者と共通している。したがって、加害者の罪は「極刑」に値すると私は思う。
 警察には「民事不介入」の原則があるので、家族間の犯罪を未然に防止することが難しいということであれば、その刑罰をより強化するほかに、この種の犯罪を防止することは不可能ではないだろうか。被害者が「身内」だからといって、加害者の罪が軽減される理由はない。(2006.9.30)》


 当時、〈加害者の罪は「極刑」に値する〉と私は書いたが、「極刑」とは、受刑者を「真人間に生まれ変わらせる」罰である。懲役や説諭、教誨で生まれ変われる者は少ない。受刑者を拘禁し、食物だけを与えて、一切のコミュニケーションを絶つのである。彼が「内省」(内観ともいう)し、自分の行為が誤りであったことに自ら気づくまで、その償いとして何をすべきかがわかるまで、それを実行・実現できるまで、その状態を続けるのである。この刑に終わりはない。自分が犯した罪は、自分で償わなければならないからである。 ・・・はたして、今の刑務官にその刑を科す能力(覚悟)があるか。・・・
 かくて、今回もまた若い両親は「懲役刑」という軽い罪で出所し、虐待が繰り返されることは間違いないだろう。(2018.6.9)