梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「サプール」と呼ばれる男たち

 午後10時から「地球イチバン・世界一服にお金をかける男たち」(NHK)という再放送番組を観た。コンゴ民主共和国の「サプール」に関するレポートである。詳細は以下のように紹介されている。〈あのポール・スミスも刺激を受け、コレクションに反映させたというコンゴの紳士たち。土煙舞う道端を、色鮮やかなスーツに身を包みかっ歩する。彼らはサプールと呼ばれ、ひとたび現れると、人々が家々から飛び出し、喝采を送る街のヒーローだ。しかし、その正体は平均所得月2万5千円の一般の人たち。給料の半分以上を衣服につぎ込む、その情熱の正体とは!?漫才師のダイノジ・大地さんが、「着飾る」意味を探る。語り:役所広司〉(NHKネットクラブ・番組ウォッチ)
 「サプール」と呼ばれる男たちの、日々の生活は(日本と比べて)貧しい。トタン屋根のバラック小屋に住み自室は四畳半程度、しかし、そこには足の踏み場もないほどに高級ブランドの洋服、装飾品が収められている。土・日曜日になると、彼らは思い思いの衣装で自分自身を着飾り、「かっこよさ」を競い合う。しかも、その「かっこよさ」とは、相手を敬うことが大前提、決して争わない。「武器を捨て、エレガントに生きよ」という非暴力・平和主義を標榜する。見るからに屈強な男たちが、カラフルな衣装で身を固め、「見栄を切る」情景は、感動的であった。これまで、ケンカ三昧に明け暮れていた若者がサプールの師匠に弟子入りして曰く、「もうケンカはしない、服が破れてしまうよ」。そのエレガントな「服」こそが、非暴力・平和の象徴であり、人類の未来を指し示しているのだが、欧米先進国ならびにわが国の「男たち」には、似合わない。・・・なぜだろうか。
(2015.2.12)

「般若心経」の《眼目》

    今、何の悩みもなく絶好調で生きている人々は、それでよい。反対に、すべてが思うようにならない、失敗の連続で失意のどん底に沈んでいる人、何の望みもなく鬱々とした人生を送っている人にとって、「般若心経」は恰好の救済書である、と私は思う。「般若心経」は、わずか262文字からなる教典である。すべてが漢字で綴られているが、そのなかで「無」という文字が21回もでてくることが特徴である。「無」とは、文字通り「ない」という意味だが、それではいったい何がないのだろうか。教典に曰く「是故空中無色」(ぜこくうちゅうむしき)、色とは「物質的現象」のことである。「空」という世界の中では、自然、生物、人間等々、存在すると思われている「物」は、すべて「無い」ということである。亦曰く「無受想行識」(むじゅそうぎょうしき)、受とは「感覚」(感じる)想とは「想起」(思う)、行とは「意志」(行う)、識とは「認識」(考える)のことである。それらは、あるようにみえて、すべて「無い」。亦曰く「無眼耳鼻舌身意」(むげんにびぜっしんに)、眼耳鼻舌身とは「感覚器官」、意とは「心」のことである。五感で感じることも、心で思うことも、すべて「無い」。亦曰く「無色声香味触法」(むしきしょうこうみそくほう)、色声香味触とは「感覚器官の対象」、法とは「精神」のことである。五感で感じる色・声・香、味、触感なども、すべて「無い」。精神(心の働き)も「無い」。亦曰く「無眼界乃至無意識界」(むげんかいないしむいしきかい)、眼界とは「眼の感覚器官」のことであり、意識界とは、文字通り「意識」のことである。要するに、「有る」と思われている諸々の世界は、すべて「無い」のである。続けて曰く「無無明」(むむみょう)、無明とは「無智」のことであり、迷いの中にいる私たちのことである。その迷いも「無い」。亦曰く「亦無無明尽」(やくむむみょうじん)、無明尽とは「無明の尽きること」、すなわち「悟り」のことである。したがって、悟りも「無い」。曰く「乃至無老死」(ないしむろうし)、老死とは「老いること・死ぬこと」である。老いることも、死ぬことも「無い」。亦曰く「亦無老死尽」(やくむろうしじん)、老死尽とは「老死が尽きること」である。それも「無い」。更に曰く「無苦集滅道」(むくしゅうめつどう)、苦集滅道とは、苦諦、集諦、滅諦、道諦のこと(四諦)である。四諦とは「この世は苦であること、苦の原因は欲であり、それを減じるために、八正道という方法を実践しなければならない」という教えであるが、それも「無い」。亦曰く「無智亦無得」(むちやくむとく)、「以無所得故」(いむしょとくこ)、「所得が無いが故に智も無く、また得も無し」、一切の物事にとらわれることがないから、知ることも、得ることもない、ということである。亦曰く「心無ケイゲ」、ケイとは「網」のことで、ゲは「さえぎる・さまたげる」という意味である。つまり「網に引っかかって、身動きできない状態」のことである。亦曰く「無ケイゲ故無有恐怖」(むけいげこむうくふ)、心のさまたげが無い故に、この世で恐れおののくことなど何もない、ということである。結びに曰く「是無上呪」(ぜむじょうしゅ)、是とは「般若波羅蜜多の六文字」であり、それは、この世の中で比べるものがないほど「この上もない」ということである。亦曰く「是無等等呪」(ぜむとうどうしゅ)、無等等とは「比べるものがない」ということである。(「面白いほどよくわかる般若心経」・武田鏡村・日本文芸社・平成17年)参照)以上が、「何がないのか」に対する答である。まさに「無い無い尽くし」の連続であり、その徹底ぶりには舌を巻く。要するに、①物質的現象、②(私たちの)感覚・意識・認識・意志など、③「迷い」や「悟り」という境地、④「四諦」という理念、⑤一切の「不自由」や「恐怖」等々が「無い」ということである。しかし、「そう言われても、現に『有る』のだから・・・」と思うのが、私たちの率直な感想であろう。ではいったい、この教えをどのように解釈すればよいのだろうか。煩悩に塗れた凡夫(私)の「独断と偏見」によれば、《事は簡単》である。ここで言う「無い」とは、「こだわらない」という意味である。すべてが思うようにならない、失敗の連続で失意のどん底に沈んでいる人、何の望みもなく鬱々とした人生を送っている人たちよ、《こだわることはない》。すべては(すでに)「空」なのだから、何もする必要はない。何も考えることはない。「ねばならぬ」といった「掟」を課して、おのれを「縛る」ことはない。財産、地位、名誉、栄光,正義、良心・・・、等々といった諸々の(五ウンの)基準とは「無縁」(こだわらない)のところで、気の向くまま、サラリサラリと生きていく。老いるもよし、病むもよし、死ぬもよし、すべては(すでに)「空」なのだから、自然の流れに身を任せなさい、ということになる。要するに「食っちゃ寝、食っちゃ寝」の生活を、だらだらと続けること、そのことに「引け目」を感じないこと、自分を責めないこと、が肝要である。人間も動物、やがては諸般の事情で「食えなく」なる時が訪れる。その時こそが、人生のクライマックス(最高潮)、いよいよ「空(腹)」の境地に達することができるのだ。肉体は衰え、文字通り「是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香未味触法 無眼界 乃至無意識界」であることを実感するに違いない。まさに「照見五ウン皆空 度一切苦厄」(人間の身心をはじめ世の中のあらゆる存在や現象は、五ウンという五つの要素で成り立ち、それは消滅し変化するもので、永遠不滅なものはない、ということを悟った。そのことによって、あらゆる苦しみと厄災から解き放たれるのである。「面白いほどよくわかる般若心経」・武田鏡村)という観自在菩薩の教えを体得できるのである。そう言えば、大昔(1960年)の戯れ歌に「腹が減ったらオマンマ食べて、寿命尽きればあの世行き」(「有難や節」作詞浜口庫之助・作曲森一也・歌守屋浩)という文言があった。蓋し言い得て妙、この俗謡と「般若心経」を比べるなど、誠に畏れ多いことだが、その眼目に大きな隔たりはあるまい。以上、すべてが凡夫の戯言、これもまた「色即是空」と聞き流してくださるか・・・。「ギャテイ ギャテイ ハラギャテイ ハラソウギャテイ ボジソワカ」。
(2012.8.4)

「犀の角」(ブッダの言葉)

 人は誰でも、誰かと一緒に暮らしている。その誰かとは、例えば親、例えば恋人、例えば配偶者、例えば子・・・。一緒に暮らすということは、単に同居することではない。「心を重ねる」ということである。「心を重ねる」ということは、お互いに相手を必要と感じ、その人と顔を合わせ「対話をしたい」と思うことである。その人と一緒にいると、心が安定し、生きる意欲(元気・やる気)が湧いてくるということである。ところが、その状態は、時として崩れる。いや、必ず崩れる。その状態を、第三者は「うつ病」と名づける。「うつ病」は、肉体の病気ではない。頭痛、吐き気、動悸、めまい、呼吸困難、食欲不振、不眠、関節痛等々、様々な肉体の症状が現出するが、その原因は「精神的な不安定」によるものだ、と私は確信している。したがって、「うつ病」を治す薬はない。にもかかわらず、「うつ病」と呼ばれる人たちは、精神科医に助けを求め、服薬を重ねる。その薬効が皆無とはいえないが、せいぜい肉体症状を緩和する程度に過ぎない。「うつ病」を治せるのは医者ではない。例えば親、例えば恋人、例えば配偶者、例えば子・・・、といった「心を重ねる」相手の存在である。失われた相手をどのように復活させるか、そのことによって「心の中にポッカリと空いてしまった穴」(空虚感、寂寥感)を埋めなければならない。「うつ病」を治すためには、新しい親、新しい恋人、新しい配偶者、新しい子が必要である。新しいとは「別人」ということではない。「うつ病」と呼ばれている人とかかわる、周囲の人たちが「新しく変わる」ということである。周囲の人たちは、その人と心を重ねているか。その人と顔を合わせ、対話をしたいと思っているか。その人と一緒にいると心が安定し、生きる意欲(元気・やる気)が湧いてくるか。そのことが、今、問われているのである。もし、周囲の人たちの中で、たった一人でも、その人と心を重ねることができたなら、その人の「うつ病」状態(精神的な不安定)は、直ちに解消されるに違いない。ただ問題は「周囲の人たち」が皆無の場合、すなわち「一人暮らし」を余儀なくされている人の場合である。その人が「うつ病」状態になることは当然至極、彼は誰と心を重ねればよいのだろうか。親無く、妻(夫)なく、恋人無く、子もいない。誰を頼りに、何を生きがいに生きていけばよいのだろうか。ゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)曰く「交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情に従ってこの苦しみが起こる。愛情から禍が生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのれが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め」(「ブッダのことば スッタニバータ 第一 蛇の章 三、犀の角」(中村元訳・岩波文庫・1984年)その人はすでに一人、交わる人、朋友・親友、子・妻に対する「愛着」を捨てて、犀の角(一本)のように、ただ独り歩めばよい(ことは頭ではわかる)のだが・・・。はたして、そのような境地(精神的な安定)に辿り着くことが本当にできるのだろうか。とまれ、条件は揃っている。あとは愛着を捨てることを「生きがい」にできるかどうか、そのことが、今、(私に)問われているのである。(2010.4.25)