梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・76

13 場面と談話
【要約】
 場面の性質のちがいが同一人物の談話の性質や量を規定すること、場面の変化が談話に変化をもたらすことは、成人にも幼児にも共通した事実である。われわれの言語行動の特徴の一つは、現実場面による拘束からの離脱にあるけれども、それからの全面的な離脱は、(統合失調症患者にみられるように)言語形式が一応整っていても、談話としての機能を失っている。全面的な離脱ではなく、現実場面とのつながりを保ちながら、その範囲内での場面の離脱ということが高等な伝達機能の特徴であり、この機能は談話が極度に現実場面から離脱することを防いでいる。日常の実用会話では、場面は談話を規定するおもな条件の一つであり、このことによって談話の簡略化が伝達に支障を起こさなくしている。
 しかし、発達初期においては、場面との関連はないか、希薄である。乳児期のような原始的段階では、発声は情動的であるといわれるが、この意味は発声に場面の要因が加わっていないということである。談話の初期発達についていえば、場面が漸次発声の性質や量に影響を与えることが談話発達の一つの指標になる。
 幼児の思考ないし談話の特性に関してピアジェ(Piaget,1924)が提唱した“自己中心性”の仮説に対する批判の一つに、談話における場面要因が彼の考察からもれており、彼の結論(子どもの思考および談話ははじめは最も自己中心的であり、年齢とともに自己中心性は弱まり、社会性を増していく)には一般性がないとするものがある。
 もう一つ、ビゴツキーの発達理論の立場からの重要な批判もある。(既述した。) 
 ピアジェの利用した場面は、子ども同士の自由遊びの場面であり、その特殊性を考えに入れないで、自己中心性の仮説の妥当性を証明できたと思った。しかし、何人かの学者は彼に反論した。
 マッカーシー(McCarthy,1929)は、子ども同士の自由遊びにおいては、自己中心談話の比率が高いことを発見した。マッコノン(McConnon)は、さまざまな場面で記録された自己中心談話の量の間に相互相関は少なく、成人の介入する家庭での自由遊びにおいて最大量がえられる、と結論している(McCarthy,1954)。ウィリアムズとマトソン(Williams and
Mattson,1942)は、談話に介入する人数が多くなるに従って、談話はより社会的となり、自己中心性は弱くなると結論している。ヤング(Young,1941)は、戸外遊び、室内遊び、食事、絵の4場面における幼児の談話のそれぞれの特徴をいくつかの測度で示し、その比較をしている。
 しかし、これらの研究はすべて4歳児以上の子どもを対象としており、4歳児以下については十分に検討されていない。
 ただヤングの“絵場面”は初期発達段階にも適用できるだろう。この場面では、成人が絵本と積み木で遊んでやり、子どもの相手をする。そこでは成人は子どもに質問を促し、これに答え、ときには質問を発するなど、他の3場面と比べると成人との接触度が最も大きい。しかし2歳児を対象にしているので、1歳児に適用することはできない。
 家庭にある1歳児は、覚醒時のほとんどを母親のそばですごし、母親との接触を終始保っている。彼らの“戸外場面”も室内場面と大して変わらない。
 1歳児から変化のある多くの談話の生じることが期待できるような場面とは、母親の積極的な働きかけがなされ、十分な応対が子どもから生じるような場面であろう。そのような場面として、絵本場面と玩具場面がある。村田(1960)は、この二つの場面について、1歳児の談話の標本抽出を行った。観察の対象となったのは、両親が健在の第1子で、母親が終日育児にあたることができ、身心発達に異常にない1歳児40名(男女各20名)であった。(絵本・積み木場面で各児5分ずつ採集された発声の録音記録、応対者は母親) この研究によってつぎのことが示された。
⑴ 絵本場面では、有意味発声でも無意味発声でも、積み木場面より発声頻度が高く、有意味発声のうち、その事態によく適合したものだけをとりだしても同様のことがいえる。⑵ 自発的発声に限って検討してみると、絵本場面では社会的ないし対人的発声の比率が高く、積み木場面では、他者への働きかけの意図をもたない、子ども自身の動作や内的な状態に伴う発声の頻度が高い。
 絵本場面は子どもにとって興味深い諸対象の絵がつぎつぎと与えられ、これによって子どもの表示活動は強く促され、その結果、社会談話が頻発する。積み木場面では子どもの表示活動を強く促す対象の更新はない。反面、子どもが喜んでそれをもてあそび、その動作に伴って発声も生じさせるような対象としての積み木がある。このような結果として、⑶ 絵本場面では対象語・状態語が多く、積み木場面では感嘆語・動作語が多いという場面的特徴が認められる。


【感想】
 ここでは、「場面と談話」の関係にかかわる先行研究として、ピアジェ、マッカーシー、マッコノン、ウィリアムズとマトソン、ヤングらの所説が紹介されているが、いずれも4歳児以上を対象としているので、著者の意図する初期段階(1歳児)に適用することはできない、ということであった。そこで、著者は自身が行った1歳児40名を対象にした研究結果を示している。
 絵本場面と積み木場面で子どもが発した音声を録音し、二つの場面でどんな特徴があるかを分析している。その結果、①絵本場面の方が発生頻度が高いこと、②絵本場面では社会的・対人的な発声の比率が高く、積み木場面では、(他者への働きかけの意図をもたない)子ども自身の動作や内的状態に伴う発声の頻度が高いこと、③絵本場面では対象語・状態語が多く、積み木場面では感嘆語・動作語が多いということ、が明らかになったということである。
 私が興味深かったのは、②で絵本場面では社会的・対人的な発声の比率が高いにもかかわらず、③では対象語・状態語が多いという《矛盾》である。対象語とはおそらく名詞、状態語とは形容詞のことだと思われるが、それらが「社会的、対人的な発声」だとみなす根拠は何だろうか。積み木場面では、おそらく並べたり積んだりする作業に、ひとりで没頭するので、発生頻度は少なく、独り言としての感嘆語・動作語が多くなることは肯ける。 私の知る「自閉症児」の両親は、子どもに絵本を与え(読み聞かせ)、童謡のCDを頻繁に聞かせたが、積み木は「放り投げてしまい、あぶない」ので1歳時には与えなかった。総じて「自閉症児」は、積み木よりも絵本の方に関心をもつように感じられる。積み木は立体物であり三次元の存在(具体物)であるのに対して、絵本は二次元の世界であり、絵から記号、文字へと対象が拡がっていく。昔、実施した幼児用知能検査「PBTテスト」でも、知的障害児は「積み木検査」の得点が高く「絵画検査」の得点が低い、自閉症児は「積み木検査」の方が低く「絵画検査」の方が高い、という対照的な結果になったことを 思い出した。(2018.9.8)