梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・66

■母親の初語識別
《初語識別》
【要約】
 通常、初語は子どもとたえず接している母親によって発見される。母親は、純粋に情動的あるいは喃語的な発声に対しても、これを自分への呼びかけ、あるいは、何かを自分に要求する有意味的発声と解釈しがちである。客観的に有意味とはいえない空疎な音声が、母親には意味的なものとして受けとられることがある。これはいわば“誤認された初語”である。
 誤認にはちがいないが、このような誤認に基づく母親の応対がその空疎な音声を語に仕立てていく一つの契機を作っていると思われる。そうした子どもの発声を、母親があたかも有意味な呼びかけ、あるいは命令であったかのように受けとめ、それに対応する言語的その他の行為を子どもに返す。このことが、子どもにとっての語形成訓練となるであろう。【“原初的共有事態”】
 このような訓練の効果は、子どもの側における母親についての認知の仕方にも大いに依存しているだろう。子どもにとって母親は、他の外的な刺激とは若干異なるものとして認知されていると考えられる。子どもにとって母親は特殊な意義をもつ存在である。母親は、子どもにとっては、自己に対立する存在である。母親はときには子どもの欲求達成を妨げるものであり、この意味では外的事象と同じ性質をもつ。しかし、一方、母親は子どもの欲求を達成するための最も有効なチャンネルでもあり、この点では、自己の一部でもある。したがって、子どもの外的認知は、母親の外界認知と共有的な関係をもち、そのことによって子どもの外界認知が発達していくとも考えられる。ウェルナーとカプランは、これを“原初的共有”とよんで、外界認知の初発要因としている(Werner and Kaplan,1963)。


【感想】
 ここでは、初語の識別が、①通常、母親によって行われること、②しかも、それは“誤認された初語”であること、③しかし、「誤認に基づく母親の応対がその空疎な音声を語に仕立てていく一つの契機を作っていると思われる」ことが、述べられている。
 要するに、(著者は)母親は「主観的に」子どもの《(客観的には)無意味で空疎な発声》を「語」と認める傾向があり、その傾向が「子どもにとっての語形成訓練となるだろう」と仮定している。その誤認は、母子の《原初的共有》という特別な(他人には介入できない)関係の中でもたらされるということである。その仮説に、私もまた全面的に同意する。
 もし、母子の間に《原初的共有》という「特別な関係」が成立していなかったら、また、母親が子どもの《無意味で空疎な発声》を初語と誤認しなかったら(客観的に評価し続けたとしたら)どのような結果になるだろうか。
 きわめて興味深い問題である。(2018.8.24)