梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・13

■非叫喚発声
《非叫喚発声の発達的意義》
【要約】
 非叫喚発声は叫喚よりもよく統制された呼吸活動と調音活動のもとで生じる。叫喚よりも変化に富んだ発声である。叫喚が強力な発声であるため母親の注意をひきつけ、その結果として自己の欲求をみたすのに役立つのに対して、非叫喚は弱い発声であり、母親の注意をそれほどひかない。
 叫喚の表示的効用を非叫喚のそれと比較してみると、叫喚の効用に大きな限界があることがわかる。第一に、急速に分化する認知や欲求に対応しうるような叫喚の分化は、叫喚の動機と音声特徴からいって、作りだすことができない。叫喚は将来の言語記号媒体となりうるような音声のバラエティーをもつことができない。第二に、叫喚は強い欲求や情動と生得的に固く結合していて、この結合は解除したり変換することがほとんどできないので、象徴過程と結合することができない。象徴過程における能記(表示するもの)と所記(表示されるもの)との間の結合は習得されるものであり、自由に交換されうるものでなければならないからである。
 非叫喚音声は上の二つの条件・・素材的音声面と象徴面・・をともにみたす方向へと発達変化するのであり、ここに非叫喚が談話の全体パターンの最も直接的な母胎となる理由がある。非叫喚発声こそ、急速に分化し高次化する子どもの認知・情動・欲求に即応できる音声の分化と象徴化とを可能にする。


【感想】
 著者はここで叫喚発声(「オギャー、オギャー」)と非叫喚発声(クーイング「アー、ウー、オックン」、喃語「ババババマー」「ナン、ナンナンナー」)とを比べ、叫喚発声は母親の注意をひきつけ自己の欲求をみたすのに役立つが、非叫喚発声は弱い発声であり、叫喚発声ほど母親の注意をひかない、と述べている。しかし、叫喚発声は音声特徴が単調なので、複雑化していく子どもの認知や欲求を的確に表すには限界がある。むしろ、弱い発声の非叫喚の方が、音声のバラエティーをもつことができ、さらに象徴過程とも結合できる。従って、非叫喚発声こそが、将来の言語活動を可能にする母胎であるということである。
 ここで重要なことは、子どもの「オギャー、オギャー」という泣き声に母親は敏感に反応するが、「アー、ウー、オックン」「ババババマー」などの非叫喚発声(意味のないおしゃべり)に対して母親はあまり注意しないという点である。子どもの状態は安定しており、緊急な対応を迫られていないからであろう。自閉症児の場合には「泣くことが少なかった」「おとなしく育てやすかった」という母親の述懐が目立つ。母親は、子どもが安定しているので、ことさら注意を向ける必要がなかったかもしれない。しかし、そのことで「談話」(声のやりとり)の機会が失われたこともたしかであろう。
 著者はまた、叫喚発声は「強い欲求や情動と生得的に固く結合していて、この結合は解除したり変換することがほとんどできないので、象徴過程と結合することができない」と述べ、(象徴過程に結びつく)非叫喚発声こそが「言語発達」にとって重要な母胎になるとしている。言語の機能を「象徴過程」(認知の分化・事物の概念化)に特化すればそのようにも考えられるが、私自身は叫喚発声もまた重要な母胎であると思う。それは、欲求・情動の直接的(主体的)な表現であり、将来の言語活動にとって不可欠な要素(伝達欲求)に結びつくからである。自閉症児の場合、この情動の表現と象徴過程との間に「断絶」が生じていることはないか。その関連、非関連を明らかにすることが、私の課題である。(2018.3.12)