梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・10

《発声行動の手段化とその要因》
【要約】
 子どもはいつごろから外界刺激の特性に対応するような行為をするようになるのか。また、このことはどのように確証されるのか。
 “(新生児は)手足をランダムに屈伸し、特殊な、つまり特性記述可能な行為をしない。「有意味だ」といえる運動が発生するにつれて、その運動がその環境へと方向づけられるようになり、そのときに「目的」とか「ポイント」がはっきりしてきたという確信を乳児にみつけることができる”(Latif,1934)。
 乳児の発声についてもこの原理は適用されるが、発声行動では他の多くの筋反応のように、それによって直接外界に対処したり作用を及ぼすのではなく、他者(聞き手)に働きかけることによって他者を介して外界に作用を及ぼすという間接的経路をとる。しかし、このことは、一般の乳児の環境ならば実行困難なことではない。育児者は乳児のこの発声行動に敏感に応じ、彼の欲求をみたすために努力するからである。
 初期叫喚は変化には乏しいが、強い刺激として育児者の注意をひき、即時的に効果をあげることが多い。音声型自体は、原始的、未分節だが、このような効果の即時性によって
十分確実に強化され、比較的早期にその手段化が達成されると考えられる。これが発声反応の手段化の第1号であるという点が注目されなければならない。
 “疑いもなく叫喚は、乳児の最も初期には、子どもの側になんらの意識的意味はない。しかし、それは成人にとっては意味があり、成人はそれを乳児の苦痛の記号として理解するのである”(Latif,1934)。
 子どもの発声に対する成人の応答ないし処置(強化)が発声を手段化し“有意味化”する点を、スキナーはその言語行動理論で最も中心的な原理としている。彼は“言語行動”を、“他者の媒介を通じて強化される行動”と定義している(Skinner,1957)。
 彼によると、言語行動が他の手段行動と異なる点はただ一つであり、それは他の手段行動が物理的環境から強化(結果)を受けるのに対して、言語行動への強化は社会的である(他者を通じて与えられる)という点である。どんな大声で“水!”と叫んでも、聞き手のいないところでは強化をもたらすことはない(この点はのちに述べるマウラーの自閉強化説と対立する)。スキナーにとって言語行動を特徴づけるものは、その反応様式ではなく、強化様式である。スキナー理論においては、叫喚もまた社会的強化をうけることによって手段行動となるのだが、この点については異論がないであろう。


【感想】
 新生児期から乳児期にかけて、子どもは(反射的、単調に)「オギャー、オギャー」と発声するが、それが目的をもって「手段化」する要因は何かについて述べられている。 子どもがその発声を手段化するためには《聞き手》が必要不可欠である。聞き手は《即時に》対応(声かけ、授乳、世話など)することによって、子どもは発声すれば(泣けば)結果が得られるということがわかる、ということである。子どもの泣き声は、子ども自身よりも「それは成人にとっては意味があり、成人はそれを乳児の苦痛の記号として理解するのである”(Latif,1934)。」という説明が、たいそう興味深かった。
 「子どもの泣き声」は育児者(親)にとって大きな意味があるが、親以外の第三者にとっては、犬や猫の鳴き声と同じ程度に「うるさいだけで」意味がない。乗り物の中で、乳児が大声で泣き出せば、周囲の大人が注目し、顔をしかめる風景は日常茶飯事である。だから、他人には子どもが育てられないということであろう。
 要するに、子どもは「泣き声」を「手段化」する。著者は「これが発声反応の手段化の第1号であるという点が注目されなければならない」と述べているが、私も全く同感である。ここから、子どもの言語活動(談話)の第一歩が始まるということがよくわかった。
 自閉症児の「言語発達」について考える時、ここでは、育児者(親)が子どもの発声に対してどのように反応、対処したか、という点が大きなポイントになる。①子どもが泣いても《即時に》反応しなかった。②子どもの泣き声を「苦痛の記号」として理解したが、苦痛を頻発、増大させないために、「泣かせない」ような対応をした、その結果、子どもは「泣く」ことを《手段化》できなかった、というような実態はないか、きめ細かに検証することが重要だと、私は思った。
(2018.3.6)