梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・21

2 象徴機能の発生
【要約】
 言語行動を最も外見的にとらえるならば、それは一種の筋の運動である。きわめて複雑にはちがいないが、結局はそうである。しかし言語行動が高次の精神過程にその基礎をもち、それに規定された行動であるという面に注目しないかぎり、言語行動の形骸を追うという結果になろう。しかし、精神過程そのものは直接観察できないのであるから、精神過程についての何らかの仮説を立て、言語行動をふくむ人間の諸行動の相互関係を明らかにすることを通じて、この仮説の検証を行っていかなければならないのである。
 言語行動に最も密接に関連する高次精神機能については、われわれは“象徴機能”という仮説的概念が必要であろうと考えている。そこで、まず、この概念の意味する精神機能の発生を調べることによって、言語行動の機能的出発点を用意しなければならない。


3 象徴機能
⑴ “柱時計が鳴り出した瞬間、雨が降り出す”。この二つの現象は相互に独立したものであり、単に時間的な偶然の一致で生じた非因果的な関係にある。
⑵ “柱時計が鳴り出した瞬間、きまって籠の鳥が鳴く”。これは二つの現象の間に単純で完全な因果関係のある例である。
⑶ “柱時計が鳴り出した瞬間、鳥は空腹ならば鳴くが、そうでなければ鳴かない”。これは、一つの原因が2種の結果のいずれかをおこさせる場合であり、どちらの結果が生じるかは別の条件(空腹の程度)できまる。若干複雑な因果関係である。
 いま象徴機能を柱時計の位置に置くならば、象徴機能と言語行動との関係は明らかに⑴ではない。つまり象徴機能と言語行動とは発達的に非因果的な平行関係にはない。しかし、象徴機能は必ず言語行動を発生させるということではない。たとえば、特殊な言語訓練を受けない聾者は、象徴機能はもっているが、言語行動はしない。したがって⑵のような単純で完全な因果関係にない。象徴機能と言語行動との関係は⑶に似ているのである。つまり、象徴機能にさらに若干の条件が加えられるときに、言語行動が形成されるのである。


■“象徴機能”という概念
 象徴機能は、発声行動を言語的なものに高めるために必要な基本的な機能であると考えられる。カッシーラー(Cassirer,1944)は、このことをつぎのように述べている。
 チンパンジーは人間に共通した音声の要素を十分にもっていて、調音能力では人間とくらべて大きなハンデをもたない(この理解は誤っている)が、彼らは音声によって情動を表出するだけであり、それによって事物を表示したり記述したりすることはできない。彼らの発声は個々の具体的状況から分離することのできない特殊性をもち、つねに個別的な物に関連する。人間も乳幼児の段階はそうである。この種の発声反応は記号行動とよばれる。われわれの談話行動はこの種の記号行動を材料として発展し、記号行動の特性を十分にふくみながらも、これとは次元を異にする人間独自の行動をもつに至った。それが言語に基づいてなされる象徴行動である。言語行動は単純な常同的な現象ではなく創造的な活動であり、その構成分は生物学的にも論理的にも相互に異質のものであり、これらの構成分による構造化には秩序ないし一貫性がある。それがシンタックスである。きわめて貧弱な材料である言語記号から創造性の豊かな象徴の世界を構成することのできる者が人間であり、重要なのは個々の煉瓦や石ではなく、構築活動としての象徴機能である。言語行動の材料としての記号を活用し、これをして語らしめるものは、このような象徴機能という一般的な人間の高次精神過程である。これなしには、人間は唖者としてとどまらざるをえない。(動物には象徴機能はない)象徴行動としての言語行動は、記号行動としての発声に類似しているというよりも、むしろこれと対立するとみるべきであろう。以上が、カッシーラーの所論の大要である。
 カッシーラーのいう“記号行動”をわれわれは今まで、人間乳児の発声によってみてきた。それは、象徴機能によって基礎づけられていないか、象徴機能をひきあいに出さずに説明できるものであった。それは言語発達そのものの主題の一つではないかもしれないが、言語発達にとっては不可欠の基底をなすものなので、これを概観したのである。
 しかし、言語行動としての談話が、このような象徴機能の生じる以前の発声反応から必然的な連続として生じてくるものではないということは、さらに重要な認識である。


【感想】
 ここでは、乳児の発声(叫喚や非叫喚)が「言語」に結実化するためには「象徴機能」という高次精神過程が必要であることについて述べられている。
 乳幼児の発声は、動物の鳴き声にも似た「記号行動」に過ぎず、《言語発達にとっては不可欠の基底をなすもの」としながら、それらから「談話」が《必然的な連続として生じてくるものではない》という認識が重要である、と著者は述べているが、その重要性が今の私には判然としなかった。カッシーラーのいうように、動物は音声によって情動を表出する。「人間も乳幼児の段階はそうである」と決めつけてよいか。たしかに、乳幼児もまた音声によって情動を表出する。しかし、動物の情動と乳幼児の情動を「同一視」することはできないだろう。乳幼児の場合は、怖い、うるさい、暑い、寒い、ハッとする(びっくりする)、うっとおしい(不快である)、さわやか、眠い、疲れたなどといった複雑な情動を「泣き声」「笑い声」で表現する。育児者がそれに応答することで、それらの情動は明確に「意識化」され、「複雑な記号」として活用されるのではないだろうか。象徴機能とはいえないにしても、そこには弁別の芽生えが感じられるのだが・・・。
 私は、乳幼児の発声反応が、必然的な連続として「談話」(言語)に結実化すると考えている。自閉症児の場合、この乳幼児期の「発声反応」が極めて乏しく、そのために「情動」の意識化が遅れる傾向はないか。
 以降を読み進めることで、私の考えの正否が明らかになることを期待したい。
(2018.4.7)