梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・12

2 喃語
【要約】
 喃語(babbling)は非叫喚音から成る一連の音声パターンをいう。それが談話と区別される点は、調音化がきわめて不十分であり、かつ意味が不明であり、伝達的意図に動機づけられていないということである。それは“意味のわからない話”である。(喃話という方が適切だが、私語や独語と同じ用い方である)。喃語は話す行動の代表的な原初形態であり、ここではその音声的特性よりも行動的特性のほうに注意を向けたいと思う。
 喃語活動が談話発達における形式面(音声面)の主要な個体発生的母胎であることは疑えない。子どもは喃語活動のなかで、談話で使う諸筋の活動とそれらの間の協応の仕方を習得し、談話活動の一般的な練習をし、さらに、変化をもつ発声行動を習得する。
 談話活動の言語能力への寄与はそれだけにとどまらない。ランガー(Langer,1960)は、人間が言語能力をもつようになるには、“まわらぬ舌で不完全にでも発音しようとする本能”・・つまり喃語活動・・が欠くことのできない要因であり、それが生じるためには、人間の談話に接する機会が幼い時期(学習最適期)に生じる必要があるとし、一定の年齢をすぎると談話に接する機会を与えても喃語は生ぜず、言語発達は期待できないという。たとえば、12歳ころまで人間社会を知らなかった少年ビクトール(Itard,1958)は、この“無目的な発音本能”を失ったのちであったために、長期にわたる言語訓練もその効果をみることがなかった。


【感想】
 乳児期初期の非叫喚音「アー、ウー、オックン」は、やがて「ナンナンナンナー」「ババババマー」のような「喃語」に発展する。それは“意味のない話”だが、「談話発達における音声面の主要な母胎である」と著者は述べている。つまり、喃語は「談話活動の一般的練習」であり「変化をもつ発声行動の習得」である。ランガーはそれを「まわらぬ舌で不完全にでも発音しようとする本能」(無目的な発音本能)と捉えたが、その本能とはどのような本能だろうか。私は「模倣しようとする」本能だと思う。子どもが喃語を発しているとき、成人(育児者)はその「声」を模倣する。その「声」を聞いて、子どもはさらにまた成人の「声」を模倣する。その繰り返しが、「談話活動の一般的な練習」であり、「変化をもつ発声行動」を習得させるのだと思う。従って、ここでも子どもの喃語に対して育児者が“話しかけられた”と感じ、同じ音声で応じることが不可欠ではないだろうか。
 自閉症児の「言語発達」について考える場合、①喃語は生じたか、②それは活発になり増えていったか、③喃語を媒介として成人(親)との「声のやりとり」は増えていったか、④子どもは親の声を聞いて真似しようとしたか、といった点が重要なチェックポイントになると、私は思う。喃語は生じたが活発にならなかった、喃語は消えていった、絵本の単語、句、文から話し始めた、などという場合には「談話活動の一般的練習」が不十分ではなかったか。自閉症児のなかには(成人の自閉症者でも)、独り言を繰り返す場合がある。その「独り言」と「喃語」(意味のない話)とは、どのような関係があるのだろうか。まだ「対話」(談話)が不十分なために、その「一般的練習」「無目的な発音本能」の段階にとどまっているのだろうか。あるいは「感覚刺激要求行動」として、自分の声を聞くために発声しているのだろうか。あるいは、他人からの働かけ(刺激)を回避するための手段だろうか。それとも他の理由があるのだろうか。きわめて興味深い問題である。(2018.3.11)