梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

吉本芸人Mの「笑い」

 フランスの劇作家マルセル・パニョルは「笑いについて」(岩波新書)の中で、「笑い」には3種類ある、と述べている。その1は、強者が弱者を見下して蔑む笑い、その2は弱者が強者をからかって皮肉る笑い、その3は人間同士が楽しみや喜びを分かち合う連帯の笑い、である。日本でも「嘲笑」「哄笑」「嬌笑」「爆笑」「微笑」などなど様々な「笑い」がある。昔の歌「デカンショ節」には「土手の向こうをチンバが通る 頭出したり隠したり」「親父の頭にお香々乗せて これがホントの親孝行」などという文句があった。では今現在、いわゆる「お笑い芸人」の「笑い」とはどのようなものであろうか。特に、今、話題の吉本芸人Mが「醸し出す」笑いとはどのようなものであろうか。私は。彼の「芸」を全く見聞していないので、これから先は想像の域をでないのだが・・・。
 総じて、日本の喜劇、コント、漫才を見聞すると、その1、その2の笑いがほとんどで、その3の笑いは稀少でないだろうか。そんな折り、吉本芸人Mは、日頃の仕事を離れて、「男女の喜び」を分かち合うその3の笑いを追い求めたか。そして、お互いに「笑い合えた」と思っていたはずが、何としたことか、相手は怯えていたか、怨んでいたか、憤っていたか、いずれにせよ「連帯」はしていなかったのである。
 その行き違い、思い違いは、誰にでもある、どこにでもあるといった、まさに「喜劇」的な場面であったのだが、吉本芸人Mはその笑いを「芸」にまで高めることができなかった。(自分を笑いの対象にすることができなかった。)お笑い界の「第一人者」として君臨していたはずなのに、「他人は笑いものにできても、自分自身を笑いものにはできない」といった「未熟さ」(世間では名誉とか自尊心とかいう)が、はからずも露呈されてしまったということか。
 ある先輩芸人は「芸は一流だが、遊びは三流」と吉本芸人Mを評したそうだが、「芸」と「遊び」を区別しているその芸人も若い、若い。「芸のためなら女房も泣かす それがどうした文句があるか」と男がいえば、女は「そばに私がついてなければ、何も出来ないこの人やから 泣きはしませんつらくとも」と受け容れる。(「浪花恋しぐれ」(詞・たかたかし)それがかつての吉本芸人(初代・桂春団治)の男女模様ではなかったか。
 要するに、その1、その2の笑いに終始することは簡単だが、その3の笑いを実現することは、並の芸人にとっては至難の業だ、ということが証されたということか。
(2024.2.25)