梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

私はまだ生きている、65歳

 私はまだ生きている、65歳。なぜ?、などと考えてみたところで、答が見つかるはずがない。生きているから生きているのである。でも、「生きる」ことは苦しい。「苦」とは、仏教用語で「思い通りにならない」由。早く死にたい。死ねば「楽」になる(はずだ)。友だちのS君は逝った。知人のA氏も逝った。今度は私の番なのだ。どうすればよいか、頭ではわかる。食を断とうか。でも絶つことができない。まだ「未練」があるのだ。そう、私はどうしても「愛別離苦」(愛する人と別れなければならない苦しみ)という煩悩を克服することができない。未だに「愛する人」を求め続けている有様で、「情けない」限りである。人の世は「一切皆苦」、その苦しみを逃れるためには「欲を捨てること」が肝要と、言われている。食欲は「自然の欲望」、満たされれば満たされるほど減退するが、愛欲は「奴隷の欲望」、満たされれば満たされるほど、無限に増えていく。「もう一度会いたい」という欲望をどのように捨てればよいか。しかし、ひるがえって考えれば、私自身、その欲望のために「生きて」きたような気がする。もし、その欲望がなかったら、とうの昔に死んでいたかも知れない。人はなぜ生きる?、愛する人に出会うため、その人と楽しい時間を過ごすため、そう思って生きてきた。だがしかし、「愛する人」なんて、本当に実在するのだろうか。「愛する」とは、その人を「独占」することに他ならない。他の人を排除し、その人だけを「独占」することなど、できるはずがないではないか。誰が私の「独占欲」を受け容れてくれるだろうか。かくて、私の愛は「破綻」するのである。その「虚しさ」で私の生活は覆われる。その繰り返しで65年生きてきた。もういい。もう終わりでいい、と思いながら、それでも「愛する人」を求め続けている。
(2010.4.20)

「靖国参拝は戦争の美化」・卒寿投稿者の《達筆》

 東京新聞朝刊「発言」欄(5面)の下段に以下の投稿記事が載っている。〈「靖国参拝は戦争の美化 無職・阿伽陀しげみ(90)毎年、靖国神社の例大祭では、閣僚に加えて政治家の集団参拝が物議を醸している。彼らは「国のために命を捧げた英霊に尊崇の念を払うのは当然」と口をそろえる。だが、勝ち目のない戦争で、一度乗り込めば二度と生還できない人間魚雷に閉じ込められて生を絶たれたり、他国の地での無謀な作戦で疫病や飢餓で無駄死にさせられた若者たち。これが「国のために命を捧げた英霊」などと言えようか。今の政治家は戦争の実態を全く知らないとは思うが、靖国参拝の際には、当時の為政者(国)に代わり「国のために非業の死を強いられた」若者たちの霊に土下座して謝罪するのが筋ではないか。でなければ、その政治家の参拝は、その意図すると否とにかかわらず、侵略戦争を自衛のための戦争と正当化し、戦争を美化し、現代の若者たちに「国のために死ね」と教唆することになる〉。投稿者は90歳の(おそらく)女性、定めし「靖国の母」の娘、もしくは「靖国の妻」の一人ではなかろうか。それにしても、その文体・論脈・筆致は、今なお矍鑠として光り輝き、私たち後輩を導く、力強い標を示されていることに、私は驚嘆した。作詞家・横井弘は〈生きてきました 嵐に耐えて めぐり逢う日を 待ちました 愚痴は言うまい ここの社(やしろ)へ 詣(もう)でる人は 詣でる人は みんなせつない 人ばかり〉(「靖国の母」曲・遠藤実、唄・二葉百合子)と謡ったが、卒寿を迎える投稿者は、その「せつなさ」の根源・正体を、容赦なく暴いている。まさに「お見事な人生」という他はない。靖国神社に合祀されているA級戦犯者が、(意図すると否とにかかわらず)「勝ち目のない戦争」で「若者」をはじめ、老若男女の非戦闘員も含めた同胞300万人を犠牲にしたことは「事実」であり、たとえ(侵略戦争を自衛のための戦争と正当化したとしても)その責任・罪を免れることはできない。そのことは、他ならぬ彼らの部下であったB級戦犯者(の一人)が、以下のように悲しくも証言・告発しているのだから。〈つまらぬ戦争は止めよ。曾ての日本の大東亜戦争のやり方は間違っていた。独りよがりで、自分だけが優秀民族だと思ったところに誤謬がある。日本人全部がそうだったとは言わぬが皆が思い上がっていたのは事実だ。そんな考えで日本の理想が実現する筈がない。愛と至誠のある処に人類の幸福がある。(抜粋)〉(野田毅・元陸軍少佐。昭和23年1月28日、広東に於て銃殺刑。35歳・『世紀の遺書』・巣鴨遺書編纂会刊)結びに、投稿者・阿伽陀しげる氏のますますの御活躍・御健勝を祈念する。
(2013.10.26)

瀬戸内寂聴氏の晩節

 スポニチアネックス(10月14日配信)に「瀬戸内寂聴さん 謝罪」という見出しで、以下の記事が載っている。〈今月6日に福井市内で行われた死刑制度をめぐる日弁連のシンポジウムで、ビデオメッセージで「殺したがるバカどもと戦ってください」などと制度を批判したものの、犯罪被害者遺族らからやインターネット上で批判が殺到した作家の瀬戸内寂聴さん(94)が14日付の朝日新聞のエッセーで謝罪した。「バカは私」と題した文章。「今も世界の趨勢に遅れ、死刑制度をつづけている我が国の政府に対して、人権擁護の立場から発した意見であった」とし「バカども」は犯罪被害者を指すものではないと釈明した。しかし、SNS上で犯罪被害者をバカ呼ばわりしたととられ、炎上。「誤解を招く言葉を94歳にもなった作家で出家者の身で、口にする大バカ者こそ、さっさと死ねばいい。お心を傷つけた方々には、心底お詫びします」と謝罪した。〉
 瀬戸内氏は、比叡山延暦寺禅光坊住職と聞く。仏道を歩む人の「説法」としては最低・最悪の結果となったが、なるほど即身成仏は難しい。瀬戸内氏の謝罪によって、「死刑制度」廃止の機運は尻つぼみになってしまった。三悪道に趣くのは、死刑囚か、犯罪被害者か、瀬戸内氏か、それとも私自身か・・・。ちょっとした油断、傲慢で、瞬く間に晩節が汚されてしまうことを知るには、恰好の一件であった。(2016.10.15)