梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「靖国参拝は戦争の美化」・卒寿投稿者の《達筆》

 東京新聞朝刊「発言」欄(5面)の下段に以下の投稿記事が載っている。〈「靖国参拝は戦争の美化 無職・阿伽陀しげみ(90)毎年、靖国神社の例大祭では、閣僚に加えて政治家の集団参拝が物議を醸している。彼らは「国のために命を捧げた英霊に尊崇の念を払うのは当然」と口をそろえる。だが、勝ち目のない戦争で、一度乗り込めば二度と生還できない人間魚雷に閉じ込められて生を絶たれたり、他国の地での無謀な作戦で疫病や飢餓で無駄死にさせられた若者たち。これが「国のために命を捧げた英霊」などと言えようか。今の政治家は戦争の実態を全く知らないとは思うが、靖国参拝の際には、当時の為政者(国)に代わり「国のために非業の死を強いられた」若者たちの霊に土下座して謝罪するのが筋ではないか。でなければ、その政治家の参拝は、その意図すると否とにかかわらず、侵略戦争を自衛のための戦争と正当化し、戦争を美化し、現代の若者たちに「国のために死ね」と教唆することになる〉。投稿者は90歳の(おそらく)女性、定めし「靖国の母」の娘、もしくは「靖国の妻」の一人ではなかろうか。それにしても、その文体・論脈・筆致は、今なお矍鑠として光り輝き、私たち後輩を導く、力強い標を示されていることに、私は驚嘆した。作詞家・横井弘は〈生きてきました 嵐に耐えて めぐり逢う日を 待ちました 愚痴は言うまい ここの社(やしろ)へ 詣(もう)でる人は 詣でる人は みんなせつない 人ばかり〉(「靖国の母」曲・遠藤実、唄・二葉百合子)と謡ったが、卒寿を迎える投稿者は、その「せつなさ」の根源・正体を、容赦なく暴いている。まさに「お見事な人生」という他はない。靖国神社に合祀されているA級戦犯者が、(意図すると否とにかかわらず)「勝ち目のない戦争」で「若者」をはじめ、老若男女の非戦闘員も含めた同胞300万人を犠牲にしたことは「事実」であり、たとえ(侵略戦争を自衛のための戦争と正当化したとしても)その責任・罪を免れることはできない。そのことは、他ならぬ彼らの部下であったB級戦犯者(の一人)が、以下のように悲しくも証言・告発しているのだから。〈つまらぬ戦争は止めよ。曾ての日本の大東亜戦争のやり方は間違っていた。独りよがりで、自分だけが優秀民族だと思ったところに誤謬がある。日本人全部がそうだったとは言わぬが皆が思い上がっていたのは事実だ。そんな考えで日本の理想が実現する筈がない。愛と至誠のある処に人類の幸福がある。(抜粋)〉(野田毅・元陸軍少佐。昭和23年1月28日、広東に於て銃殺刑。35歳・『世紀の遺書』・巣鴨遺書編纂会刊)結びに、投稿者・阿伽陀しげる氏のますますの御活躍・御健勝を祈念する。
(2013.10.26)