梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

コロナ・おかしなこと(4)

 《ワクチン接種は何のためにするか。いうまでもなく感染予防のためだ。》と、私は(前回)書いたが、それは《誤り》であることがわかった。ワクチンで感染は防げない。防ぐことができるのは《発症》だということだ。つまり、ワクチンを接種していれば、感染しても発症しない、もしくは軽症で治まるということらしい。なるほど「新型コロナワクチン予防接種についての説明書」(保健所)には、《新型コロナウィルス感染症の発症を予防します。》と明記されている。そして《現時点では感染予防効果は明らかになっていません》という文言が続く。
 だとすれば、ワクチンを接種していても《感染を防ぐ》ことはできないのだから、《公共の福祉のために》(皆が感染しないために)ワクチン接種をする必要がある》という理屈は成り立たなくなる。要するに、ワクチンは自分の身を守る(発症を防ぐ)ために打つのであって、他人への感染を防ぐためではないということだ。
 また、ワクチン接種によって減らすことができるのは「発症者数」(患者数)であって、「感染者数」ではないのだから、ワクチンの接種者数と感染者数の関係(比例)を調べてみても意味がないということがよくわかった。どんなにワクチン接種者が増えたところで、感染者が減るわけではない。にもかかわらず、為政者、専門家、メディアは未だに《感染者数》をカウントしている。なぜだろうか。
(2021.7.7)

映画「港の日本娘」(監督・清水宏・1933年)

 ユーチューブで映画「港の日本娘」(監督・清水宏・1933年)を観た。戦前の男女の色模様を描いた傑作である。港の日本娘とは黒川砂子(及川道子)のことである。彼女には無二の親友、ドラ・ケンネル(井上雪子)がいた。この二人に絡むのが男三人、プレイボーイのヘンリー(江川宇礼雄)、貧乏な街頭画家・三浦(齋藤達雄)、酒場の紳士・原田(南條康雄)である。
 砂子とドラは、横浜・山の手の女学校に通う仲良しで、下校時いつも最後まで残るのはこの二人、その帰り道を狙って、ヘンリーがオートバイに乗って近づいて来る。どうやら、砂子の方がヘンリーに惹かれている様子、ドラはいつも置いてきぼりにされることが多かった。ヘンリーはオートバイに砂子を乗せ、海に、山に、街に逢瀬を楽しんでいた(幸福を楽しんでいた)のだが、「移ろいやすいのは恋」、ヘンリーの前にに新しい恋人、シェリダン耀子(沢蘭子)が現れると、今度は砂子が置き去りにされる。その頃からヘンリーの素行は悪化、与太者仲間との付き合いも始まった。ドラはヘンリーが隠し持っていたピストルを取り上げて、ヘンリーの翻意を促す。しかし、ヘンリーには、熟女・耀子の色香の方が魅力だったのだろう、豪華船内で催されるダンスに誘われて赴く。その帰り、酔いつぶれた耀子を介抱しようと、ヘンリーが街(女学校?)の教会に入ると、「神様の前で結婚しちゃうんだよ」などと耀子がうそぶく。ドラに言われて、波止場までヘンリーを迎えに行った砂子は二人を教会まで追跡してきたか、静かにドアを開け、無言で耀子と睨み合う。耀子が嘲けて笑いかけた時、砂子の手にしたピストル一発が炸裂、耀子はその場に倒れ込んだ。あわてて抱き起こすヘンリー。砂子のピストルはドラがヘンリーから取り上げた代物に他ならない。清純な女学生たちの間に、悲劇の幕が切って落とされたのである。砂子は「神様!」と救いを求め、叫んだが、神様は許してくれなかった。
 気がつけば、砂子は「横浜から長崎へ、長崎から神戸へと渡り歩く哀しい女」になってしまっていたのである。神戸の波止場を朋輩・マスミ(逢初夢子)と、日傘をさしながら散歩している。マスミが「そろそろ横浜に住み替えだ」と言えば、砂子も「あたしも横浜に帰ろうかな」。マスミが後ろを振り返って「あの居候はどうするのさ」。二人の後ろから、砂子のヒモらしき貧乏画家・三浦が、とぼとぼ付いてきていたのだ。「犬ころみたいに付いてくるんだもの、どうしょうもないじゃないか」。「彼は一体、何者?」「あれでも画家よ。長崎からの道ずれさ、くっついて離れないんだもの」「あんたの亭主? 情夫?」「さあ、何だかねえ」と砂子は応えた。
 かくて三人は横浜へ。横浜では真面目になったヘンリーとドラが新所帯を構えていた。まもなく子どもも生まれる。帰宅したヘンリーは、食事をしながら「砂ちゃんが戻って来たらしい。昔の面影はないそうだ」とドラに告げる。一瞬、顔を曇らせるドラ・・・。
 ある雨の夜、客の来ない「ハマのキャバレー」では女たちが三々五々帰って行く。残されたのは砂子と紳士、そこにヘンリーが訪れた。びっくりする砂子、思わず厚化粧の姿を見られまいと壁に隠れたが、やがて見つめ合う二人。紳士は「邪魔者は消えるよ」と立ち去った。二人とも無言で俯いていたが「お酒、飲む?」「・・・」、ヘンリーは下を向いたまま首を振る。「ドラは今、どうしているかしら、消息知らない」「・・・・」「あたしの聞き方が悪かったわね。二人は今、幸せ?」「・・・・」「あなたたちのこと、心から祝福するわ」と言って砂子は涙ぐむ。ヘンリーは終始無言、「あたし、もう帰るわ。それとも、あたしのお客になる?」「・・・・」「冗談よ」。ヘンリーは無言のまま砂子のアパート(従業員寮)へ。「ドラによろしくね」と言って砂子がドアを開けると、のっそり三浦が顔を出し、パタンとドアを閉めた。やはり、無言のままヘンリーの姿は画面から消える。部屋の中では三浦が、隣に女の人が引っ越してきた。何か言い仕事はないか探している旨を砂子に告げる。「あんた、他人のことより自分のことを考えたら」とそっけない返事が返ってくるだけだった。
 翌朝、砂子のアパートをドラが訪れる。砂子は一瞬たじろいだが「ここは、あなたの来るところではないわ」「私が来られないでいられると思って?」「ヘンリーは真面目に働いているし、家庭は円満だし、それを喜んでもらいたいとでもいうの」と、閉め出した後で、泣き崩れた。自分の姿は、あばずれですれっからし、相手は清楚な若奥様、あの仲良しが今はこんな関係になってしまうなんて、という悔恨が伝わってくる、名場面であった。
 そして日曜日、今度は砂子がヘンリーの家を訪れる。ドラもヘンリーも歓迎、ヘンリーは昔を思い出したか、レコードをかけ砂子とダンスを踊る。馳走の準備をしていると、床に毛糸の玉がコロコロ転がっているのが見えた。その毛糸は生まれてくる子どものためにドラが靴下を編もうとしていた物、手を取り合って楽しそうに踊っている二人の足元に毛糸が絡みついていたのだ。そのことも気づかずに・・・、ドラは唖然として二人を見つめる。その視線を受けながら、砂子は腕時計に目をやり「もうそろそろお暇します」。砂子を見送りながら「送っていらしゃったら」とヘンリーを促す。ヘンリーと砂子は、あちこちと散歩しながら、昔、逢瀬を重ねた思い出の場所に辿り着いた。ヘンリーは言う。「砂子さん、お願いがあるんだ。真面目な生活に帰ってもらいたい。あなたの不幸な生活を見ていられない、苦しくて・・・」「帰りたい。でも出来ないことらしいわ。あなたの胸で泣かせて・・・」と砂子はヘンリーに縋りつく。そしてキャバレーに戻り、マスミが止めるのも聞かずに酒をあおりダンスに興じる。相手はいつもの紳士・・・。
 砂子のアパートでは、三浦がせっせと洗濯の最中、そこに隣の女が通りかかる。今日も仕事にあぶれたようだ。「私にも手伝わせて」、三浦は砂子の下着も依頼しようと部屋に戻ると、ヘンリーが待っていた。三浦はかまわず洗濯物をまとめて出てていこうとすると、ヘンリーが「砂子さんは?」と問いかけた。「留、留守ですよ」と応じれば「君は一体、砂子さんの何なんだい」「何に見える?」「兄妹にも見えないし、まんざら他人でもなさそうだ。と言って亭主にはなおさら見えない」。三浦も再び出て行こうと振り返り「ところで、あなたは一体、あの人の何なんです?」「何に見える?」「兄妹にも見えないし、まんざら他人でもなさそうだが、亭主には絶対見えないよ」。この恋の鞘当ては、どちらに分があるのやら・・・。夜、三浦が洗濯物にアイロンをかけていると、砂子がフラフラと千鳥足で帰ってくる。「あんた、あたしの下着まで洗濯したの?」「隣のご婦人がやってくれたんだ」「じゃあ、この御礼を持っていきな」と金を渡す。入れ替わりにマスミがやって来た。「あたし、お店から足ヌケするよ。少し遠いところへ行くつもりさ。辛い浮世に短い命」。突然の話で砂子はびっくりしたが、その言葉を聞いて「私も連れてって」と言う。マスミは「落武者一騎、ひとりで逃げるのがせいぜいだよ」と言ってて出て行こうとする。しかし、ドアの外には刑事と警官の姿があった。一瞬たじろいだが、「悪いことはできないよ、あばよ」と言い残し、自ら曳かれて行った。
 次の日か、三浦がヘンリーの家を訪れ、近頃ヘンリーがたびたび砂子のアパートを訪れているとドラに告げる。ショックを隠せないドラが「砂子さんはどんなお考えですの」と訊ねると、三浦は勝ち誇ったように「さあ、それが問題ですな」。ドラがたしかめようとして、アパートを訪れると案の定、ヘンリーが来ていた。三浦も砂子も不在、ドラはやむなく帰ろうとする。ヘンリーはドラを呼び止め「砂ちゃんに、何か用かい」「あなたは」「・・・・」、ドラは再び帰ろうとする。ヘンリーは「誤解しないでくれ」と言えば「誤解するようなことがあるんですの」と立ち去ろうとする。あわてて追いかけるヘンリー、家に戻ってからも気まずい沈黙が続いた。
 一方、砂子のアパートでは大喧嘩が始まった。三浦をにらみつけ砂子の怒号がとぶ。「お前はとんだ悪戯をしたもんだね」、「あたしは、せっかく一つだけあった真面目な世間とのつながりをなくしてしまった」と嘆くと、珍しく三浦が抗弁した。「僕は、ヘンリーが憎かったんです!砂子さんには僕の気持ちがわからないんですか」。その言葉を聞いて、堪忍袋の緒が切れた。砂子は「出てお行き!」と叫ぶなり、三浦の持ち物、画材、キャンバスなどなど、一切をドアの外に投げ捨てる。三浦もまた放り出されてしまった。
 「ハマのキャバレー」に、もうマスミの姿はない。砂子はいつもの紳士と酒を飲んでいる。そこにヘンリーがやって来た。砂子は笑って「ドラのお許しが出たの?」「ここに来るのに、許可がいるのか」「そうね、あなたはお客さんだったわね」「少し、話したいことがある」「あたし、お客様とは深刻な話はしないの」と言って、いつもの紳士とダンスに興じる。うなだれるヘンリー、つれなく袖にされる姿が一際あわれであった。
 深夜、砂子がアパートに帰ると、ドラが待っていた。「ヘンリーは?」と訊ねる。砂子は「あたし、あなたのハズのことなんて知りませんわ」と他人行儀に応じれば「あなたが
一番知っていると思ったのに」「ドラ、私のことそんな女だと思っているの」、力なく帰って行くドラを放っておけず、砂子はヘンリーの家まで同行する。そこで「砂ちゃん、私もうすぐママになるのよ」という言葉を聞かされた。「それなのに、ヘンリーったら毎晩お酒を飲んで帰ってくるのよ」とドラは涙ぐむ。砂子はハッとして「あたしがいけなかったんだわ、甘えていたのよ」と自分の姿にはじめて気づいたか・・・。たちまち家を出て、ハマの歓楽街をしらみつぶしに探し回る。ヘンリーは4軒目の店に居た。「こんな所に居たのね、ドラは淋しく赤ちゃんの靴下(たあた)を編んでいるのよ」。ヘンリーは憔悴して「ぼくは、一体どうすればいいのか(わからない)」と言う。砂子はキッとして「早く家に帰ってパパになる勉強をなさればいいんだわ」とヘンリーを連れ戻した。「さあ、ここで生まれてくる赤ちゃんの名前でも考えていたらいいのよ」。ドラに「雨降って地固まる、ヘンリーを可愛がっておやりなさい」と言い残してその場を去って行く。「ヘンリー、ドラ、あたしはこれからどこに行けばいいの?」と呟きながら・・・。
 アパートに戻ると、隣室から三浦が出てきた。「可哀想な女だ」。隣の女は医者に見放される病、もう永くはないと言う。砂子は、ベッドに横たわるその女を、一目みるなり驚愕した。自分が傷つけた、あのシェリダン耀子だったのである。見つめ合う二人、「砂子さん、あなただったの。シェリダン耀子もこうなってはおしまいね」と耀子が力なく笑う。窓の外は降りしきる雨。「こんな夜に世間から見捨てられて一人淋しく死んでいくなんて惨めね」。「でもこれが正しい裁きかも・・・、ヘンリーやドラはどうしているかしら」。砂子は「二人は結婚しましたわ、今、幸福に暮らしております」と告げる。「あなた、二人をそっとしておいてあげなければいけないわよ」「あたし、そのことに気がつかなかったんです。でも、二人は今、幸福です」「砂子さん、私がいい見本よ。早く真面目な生活に帰りなさい」「でも、世間は許してくれるでしょうか」「待つのよ、許してくれるまで待つのよ、じっと堪えて」「わかったわ、耀子さん。あたし待ちます。許してくれるまで待ちますわ」と、耀子の膝元で泣き崩れた。「逢えて本当によかったわ」、それが耀子の遺言であった。窓の外の雨はいっそう激しく降り注ぐ。哀しい女たちの涙を象徴しているかのように・・・。              
 かくて「横浜よ、さようなら」の日がやって来た。すっかり旅支度の整った砂子に、三浦が言う。「僕はどうなるんだね」、砂子はニッコリして「旅は道連れ、あたしに話し相手が一人ぐらいあってもいいんだわ」。パッと表情が輝いた三浦もまた慌てて旅支度を始める。やがて二人は船の甲板、海を見つめている。三浦が手にしている(砂子の)肖像画を見て砂子が言う。「そんなもの、捨てておしまい!」。三浦は一瞥したが、惜しげもなく二枚の絵を海に投げ捨てた。波間を漂う二枚の絵、それは過去との訣別、新しい生活、とりわけ真面目な生活への餞であったかもしれない。船は港を離れた。五色のテープが乱れる中、ヘンリーとドラが波止場に駆けつける。一足先に見送りに来ていた、酒場の紳士が「よろしく言っていましたよ」と二人に告げて立ち去った。二人は遠ざかる船を見つめる。カモメが飛び交い、波間に漂う砂子の肖像画が見え隠れするうちに、この映画は「終」となった。 
 映画はサイレントだが、オートバイの音、ピストルの音、波の音、雨の音、風の音、人物の話し声、叫び声、泣き声・・・などが鮮やかに聞こえてくる力作である。
 映画の眼目は、男女の色模様で「よくある話」、とりわけ二枚目(イケメン)ヘンリーの優柔不断さに振り回される女たち、砂子、ドラ、耀子の姿が哀愁を誘う。三枚目の三浦が「ボクはヘンリーが憎い」と言う心情には十分、共感できる。三浦には女を選り好みする気などさらさらない。徹底したフェミニストなのだ。ヘンリーは変貌した砂子を見て「その姿を見るのが苦しい」と言い、新妻のドラを捨て置いて酒場をさまよう。そんな姿は見苦しく、男らしさのひとかけらも感じられない。その根性が憎いのだろう。三浦の風采は凡庸、未だにうだつが上がらないとはいえ、ただひたすら砂子に追従することを目指す心意気の方が、よほど男らしいではないか。しかし、その魅力は砂子には通じない。そこら辺りの「心模様」がこの映画の眼目かもしれない。さらにまた、ほんの端役ながら、いつも砂子に寄り添い、決してそれ以上踏み込もうとしない酒場の(無名)紳士の「男振り」も、実に清々しく爽やかで、際立っていたと思うのだが・・・、男女の色模様は、げに「不可思議」というべきか。
 一方、女学生時代の砂子、ドラを演じた及川道子、井上雪子の清純な美しさは輝いていた。それが、ひょんなことから、たちまち「あばずれ・すれっからし」「所帯やつれ」に変貌する姿も見事である。その領分では、マスミの風情が一枚上か、「辛い浮世に短い命」「あばよ!」という「決めゼリフ」がたいそう堂に入っていたと、私は思う。
 監督・清水宏の作品では、『有りがたうさん』『大学の若旦那』『按摩と女』『簪(かんざし)』等が有名で、この作品はそれほど知られていない(もしくは不評の)ようだが、夭逝した及川道子を主人公に据え、江川宇礼雄、井上雪子といったハーフの俳優にヘンリー、ドラという外人もどきの役柄を脇役に配した演出はユニークでであり、貴重な異色作品あると、私は思った。 。(2017.6.9)

映画「按摩と女」(監督・清水宏・1938年)

    監督・清水宏、戦前傑作の逸品である。山の温泉場(おそらく塩原か?)に向かう按摩の徳一(徳大寺伸)と福市(日守新一)が四方山話をしながら歩いている。青葉の頃になったので、海の温泉場から山の湯治場に一年ぶりでやって来たのだ。「こうしていると、青葉の景色が見えるようだ」「今日は目明きを何人追い越した?」「17人だ」「おかげで、馬の尻や犬に何度もぶつかった」「近頃の目明きは頼りにならない」などと語り合いながら、「だから、俺たちは勘を働かせなくちゃいけない」と徳一が言う。「あっちから、子どもがやって来る。何人いると思う?」、福市が勘を働かせて「8人だな」と言えば、徳一は「いや、8人半だ。赤ん坊が負ぶさっている」「赤ん坊?ハハハ、赤ん坊には気がつかなかったな」。やがて、子どもたちが二人とすれ違う。たしかに、間違いなく7人と赤ん坊を負ぶった1人が通り過ぎた。確認して歩き出そうとすると、徳一が「ちょっと待った」と福一を制止する。前方に大きな馬糞があったのだ。二人は巧妙にその場を通り脱ける。「徳さん、もう少しゆっくり歩こうよ、疲れてしまった」「日のあるうちに宿につきたいからね」「俺たちには関係ない、いつも夜道ばかりじゃないか」「それはそうだけど、さっき俺たちを追い抜いていった学生たちを追い越してやりたいんだよ」「そりゃあ、無理だよ」「何故?」「何故ったって、無理なものは無理だよ」「無理が通れば道理が引っ込む。俺は無理を通すんだ!」と急ぎ足になった途端、徳はが大きな石に躓き転倒する。その時、後方からトテ馬車が近づいて来た。あわてて道の両脇に馬車を避け、見送る。「いい女が乗っていたねえ、東京の女だよ。東京の匂いがしたよ」。たしかに、その馬車には一人の女・三沢美千穂(高峰三枝子)、そして東京の男・大村真太郎(佐分利進)、甥の研一(爆弾小僧)さらにもう一人、謎の男(赤城正太郎)の4人が乗っていた。馭者の話、「あの按摩たちはここの湯治場の名物なんですよ。毎年、暖かくなると南の海の温泉場からやって来るんです。そのたびに何人追い抜いたといい気持ちになっているうですよ。寒くなるとまた南の温泉場に帰って行くんです」。
 その日の夜、さっそく徳一と福市にお呼びがかかった。街の小橋を渡りながら「今日は福さん、どこだい」「俺は観音屋だ」「俺は鯨屋だ」と言って別れる。徳一は鯨屋を訪れ、主人(坂本武)に「今年もよろしくお願いいたします」と、手土産を渡して挨拶、「海の温泉場の景気はどうだい」「さっぱりです」「どこも同じだなあ」と語り合うところに、女中のお菊(春日京子)が二階から降りてきて、「四番のお客様と、学生さんのところよろしく」と告げる。四番のお客様とは、馬車に乗っていた東京の女・美千穂、学生とは、ここに来るまでに追い抜いて行った連中(近衛敏明、磯野秋雄、廣瀬徹、水原弘志)であった。徳一は美千穂の肩を揉みながら「奥様は東京の方ですか」「まあ奥様だなんて」失礼しました、お嬢様でしたか」。美千穂は笑いをこらえるが多くを語らない。「だいぶ、この筋が凝っていらっしゃいますねえ。何か考えごと、心配事がおありになるのでは」「どんなことか、おわかり?」「そこまでは・・・」。次は、学生たちの部屋。「按摩さん、今日はずいぶん速歩で追いかけて来るんで、俺たちは恐くなって逃げ出したんだよ」「そうでしたか。それは残念でした!」「どうして?」「いえ、とにかく残念でした」などと言いながら、学生4人の足を徹底的に揉みまくる。捻り鉢巻きで片肌脱ぎの懸命な姿が、たいそう「絵になっていた」。一方、福市の客は、ハイキングの女学生(槇芙佐子、三浦光子、中井戸雅子、関かほる、平野鮎子)と、大村真太郎であった。女学生は、蒲団の上ではしゃぎながら「按摩さん、今日追い抜かれたんで、足がこんなに痛くなってしまったわ。按摩賃、負けなさいよ」などと福市をやり込める。「近頃の女学生は大胆になったわ」と、美千穂が徳一に語ったことが裏書きされる場面であった。大村の部屋では、真太郎を揉んでいる福市の鼻を、研一が紙縒りをつくり、黙ってくすぐる。そのたびにアブを追い払うような仕種をみせる福市の姿も絶品、永久保存に値する名場面であった、と私は思う。(現代では、障害者の尊厳を傷つける行為としてカットされるべき一コマであるにしても・・・、ただし映画の中ではそのままでは終わらない)
 翌朝、学生たちは峠越えのハイキングに出発したが、スタート早々、昨日の「揉み返し」が来て歩けない。やむなく宿屋に引き返す。その様子を見て、女学生たちが爽やかに追い抜いて行った。徳一たちが按摩宿でたむろしているとお菊が迎えに来た。「徳さん、東京のお客さんから名指しよ」。徳一はお菊に「内緒だよ」と言って、伊豆からの土産物・椿油をプレゼント、福市ら按摩仲間(油井宏信、飯島善太郎、大杉恒雄)が「ナイショダヨ、ナイショ、ナイショ」と冷やかすが、徳一は一向に動じない。徳一が鯨屋に向かう途中、たしかに美千穂に遭遇したはずだが、なぜか美千穂は立ち去った。念のため鯨屋に赴く。案の定、美千穂は不在、「戻るまで待ちましょう」と主人の肩を揉み始める。主人は「今日は朝から大変だよ。学生さんたちが帰ってきて風呂に入っている間に、金銭すべてを盗られてしまった。その時、宿に居たのは東京のお客様はずだったが、まさか・・・」と言う所に、美千穂が研一を連れて戻って来た。河原で魚釣りをしている研一に声をかけ、釣れた魚で昼食を摂ろうと約束をして来たらしい。徳一が美千穂の部屋に向かうと、前は学生の部屋。「おや、きのうの学生さん。峠越えは?」「それどころじゃないよ、足が痛くて歩けない。その上、空き巣に入られてすってんてんだ」「それは、御災難でした。いずれまた」とケロッとした様子で、美千穂の部屋へ・・・。しかし、美千穂は「さっき気づかれ逃げ出したんで汗かいちゃった、一風呂浴びてくるわ、按摩さんも入らない?」「えっ、一緒にですか」「まあ、イヤよ、一緒になんて」。フラレた徳一がしょんぼりしていると、傍に居た研一が団扇を近づけていたずらをしようとする。気配を感じた徳一が団扇を叩き落とすと、研一が泣き出した。今度は、徳一が福市の仇を取ったのである。その場面も、たいそう可笑しく、私の笑いは止まらなかった。
 鯨屋の主人は学生たちの滞在費と帰りの汽車賃を弁償、一件落着になりそうだったのだが・・・。
 その後、話は、①研一を通して、観音屋での美千穂と真太郎の出会い、③真太郎の延泊決意、④美千穂が観音屋に出向き真太郎、研一と夕食を共にする、⑤按摩部屋に観音屋から迎えが来る。徳一は観音屋だと聞いて仕事を福市に譲る、④しかし仲間から、美千穂は今晩は観音屋に居るという話を聞いて、あわてて福市を追いかける、⑤その途中、小橋で涼んでいる学生たちとぶつかり、大喧嘩。⑥翌朝、福市から、昨日観音屋にも空き巣が入って大騒ぎ、自分も調べられたと聞く。⑦河原では真太郎と美千穂の「身の上話」、⑧その夜、小橋で真太郎と美千穂の「交情話」、⑨徳一と研一の出会いと交流。⑤徳一と美千穂の交流、という展開を見せるが、詳細は割愛する。
 やがて、真太郎と研一は東京へ帰って行った。一人残った美千穂は、雨の中、河原を散歩する。その日の夜、小橋の所で、徳一は「他の宿屋でも空き巣が続発している。警察が滞在客をしらみつぶしに調べるそうだ」とう話を福市から聞かされる。空き巣の犯人は美千穂に違いない、そう盲信した徳一は慌てて鯨屋の美千穂の部屋に駆け込む。「早く、早く逃げて下さい。しらみつぶしに探しています」「えっ!探している?」「手が回っています、こうしちゃあいられません」、美千穂にも衝撃が走った。二人は裸足のまま鯨屋の裏口から脱け出し、路地の暗がりに身を隠す。「ここでしばらく待って居てください。すぐに荷物を持って参ります」。美千穂が「按摩さん!」と行くのを止めようとすると「来ちゃあいけません。私は何もかも知っていたんです。目明きの目をごまかせても私の目をごまかすことはできません。私はとても辛かったんです。早く逃げてください。私の目の届かない遠いところへ」「・・・・」「鯨屋さんで学生さんたちのお金がなくなった時、他でも盗難事件があったときにも、私があなたを信じようとして苦しみました」。その言葉を聞いて、美千穂の肩の力が脱けていく。「按摩さん、あんた何かとんでもない間違いをしてるんじゃない」「いえ、私の目に狂いはありません。あなたは考え事をしたり、心配したり、物音に怯えていたじゃありませんか」「バカバカしくて話にもならないわ。でも、それほどまでに私の身を心配してくれていたんだから、何もかもお話ししましょう」。
 美千穂は東京の「囲われ者」(妾)、旦那のお世話になるのがイヤで逃げてきたのである。奥様やお嬢様に申し訳なくて逃げてきたのである。しかし、旦那は必ず探しに来るだろう。だから、馬車のラッパの音や人の足音にも怯えていたのである。「按摩さん、私を逃がしてくれようとしたあなたに何の恨みもありません。あなたの目は見え過ぎていたんです。これからも、獣のような旦那の目の届かない所へ逃げて逃げて、逃げ回りますわ」徳一は、「お客様!」と言って跪き、頭を垂れる他はなかった。
 大詰めは、雨の中、馬車に乗り込む美千穂の姿、続いて警官が一人の男を曳いて乗り込んで来る。美千穂が来た時にも乗っていた、あの謎の男であった。走り出す馬車を見送るお菊、番頭、そしてもちろん徳一、福市の姿もある。最後、美千穂はお菊に向かって「坊やから手紙が来たら、早く大人になって立派な人になるようにってねと返事、出しといてね」と言い残し、去って行った。思わず馬車を追いかけて駆け出すす徳一、その目には今、ハッキリと美千穂の面影が映っていたに違いない。
 この映画の演出、展開、映像には寸分の隙もない傑作である。見どころは満載だが、まず一番は、按摩・徳一、福市コンビの景色であろう。道理よりも無理を通す覇気、それでいて女にはめっぽう惚れっぽい徳一の心意気と、いつも受け身で醒めている福市の安定感が、絶妙の呼吸で場面を引き立てる。何かを感じると、杖を振り上げて構える福市の姿勢がたまらなく魅力的である。徳一も学生4人と渡り合い、自分の負傷と同等に相手を傷つける実力はさすが、研一のいたずらにも一瞬で対応し「おじさんは、何だってできるんだよ」と、一本橋をするすると渡ってみせる姿は光っていた。この映画で見せた、徳大寺伸、日守新一の所作は、戦後、勝新太郎に引き継がれ、あの「座頭市」を生み出したことは間違いないだろう。二番目は、女・三沢美智穂の風情であろうか。日陰者でありながらどこか清純、徳一から「お嬢様ですか」と言われ苦笑する。高峰三枝子は当時20歳になる直前、でも研一からは「おばちゃん」と呼ばれ、慕われても不自然でない風格を備えている。大村役の佐分利信との「逢瀬」(交情場面)でも、互角に渡り合い、ふと「もう一晩泊まろうか」という気持ちにさせる魅力が輝いていた。按摩仲間、学生連中にも「不思議な女だ」と興味を抱かせる。最後まで徳一を「按摩さん」と呼ぶ姿も、毅然として清々しかった。三番目は、大村の甥、研一を演じた爆弾小僧(横山準)の「やんちゃ振り」である。福市へのいたずらが成功したので徳一にも仕掛け、逆に驚かされた途端に泣き出す。風呂に潜って泳ぎ始める、大村と美千穂に放っておかれると「つまんねえ」と言って、その場を去る。両親と死別、独身の叔父に育てられる淋しさも十分に伝わって来た。四番目は、街中の小川に架けられた小さな橋である。その橋はドラマの起承転結に必ず登場する。人物がそこにさしかかると、必ず何かが起きるのだ。例えば按摩二人の仕事始め、例えば徳一と学生の喧嘩、例えば大村と美千穂の「逢瀬」、そこに現れる徳一の姿などなど、いわば、人生の舞台、分岐点として、人々の心象を代弁する役割を持っている。そうした監督・清水宏の演出(仕掛け)は心憎いばかり・・・、見どころは他にも多く、枚挙に暇がないほどだが、長くなるので割愛する。
 戦前邦画、珠玉の名品であったと、私は思う。   
(2017.6.8)