梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「愛着障害」(岡田尊司・光文社新書・2011年)要約・3

【愛着の絆と愛着行動】
・いったん、愛着の絆がしっかりと形成されると、それは容易に消されることはない。愛着におけるもう一つの重要な特性は、この半永久的な持続性である。(「母をたずねて三千里」のマルコ少年)
・愛着の絆で結ばれた存在を求め、そのそばにいようとする行動を、愛着理論の生みの親であるイギリスの精神科医ジョン・ボウルビィは「愛着行動」と呼んだ。(「ママ」と呼びながらべそをかく、マルコ少年の大旅行)
・大人になるにつれ、母親に対する愛着は、日々の生活の中に埋没し、愛着行動も抑えられているが、心の奥底の部分では、子どものころとそれほど変わらないまま維持されているのだ。(斎藤茂吉「死にたまふ母」、遠藤周作≠織田信長)
【愛着の傷と脱愛着】
・子どもが助けを求めたとき、母親(養育者)はすぐに必要なものや慰めを与え、安心と抱擁で包むことで、子どもは母親との間に揺るぎない愛着を育むことができる。そして基本的な安心感や基本的信頼感とよばれる感覚を育んでいく。この世界が安心できる場所で、人は自分の助けとなってくれるものだと信じることができる感覚である。これは、物心がつくよりもはるか以前の体験によって、脳の奥深くに組み込まれる。
・愛着を脅かす、最も深刻な状況は二つある。一つは、愛着対象がいなくなる場合である。死別や離別によって乳幼児期に母親がいなくなることは、幼い子どもにとって世界が崩壊するににも等しい過酷な体験である。子どもは、まず泣き叫ぶ。悲しみと怒りを爆発させる。現実を受けいれることができず、それに抗議しようとする。「抵抗」と呼ばれる段階である。数日を過ごし、母親が戻ってこないとわかるにつれ、表立って泣き叫ぶことはなくなる。今度は、暗い表情で部屋の片隅にうずくまり、意気消沈して、無気力な状態を示し始める。好きだったおもちゃに触れようともせず、他の誰にも関心を示さない。食欲は落ち、睡眠も妨げられることが多い。この抑うつ的な段階は「絶望」と呼ばれる。さらに数ヶ月が過ぎて、その時期を乗り越えると、母親の記憶は封印され、何事もなかったように落ち着いて生活するようになる。「脱愛着」の段階に達したのである。周囲はほっとするが、そのために子どもが払った犠牲は果てしなく大きい。生存のために、子どもは母親への愛着を切り捨てるというぎりぎりの選択をしたのである。まだ幼く、大人の保護に頼ってしか生きていくことができない時期に、愛着の絆が強く持続しすぎることは、生存にとってはむしろ不利に働いてしまう。自分を可愛がってくれていた母親を求めつづけ、母親以外を拒否すれば、それは死につながる。こどもは究極的な選択として、母親を忘れ、新しい養育者を受けいれるという道を選ぶほかない。脱愛着を起こすことで、愛着対象を失った痛みから逃れるしかないのだ。
・離別期間が長すぎる場合には、完全な愛着の崩壊が起こる。心の中で母親という存在を理想化し憧れ抱くものの、実際に再会してみると、一緒に暮らしてうまくいくのは最初だけで、やがて強い拒絶反応が起きてしまうのがふつうである。


【感想】
 以上、二節の記述は、生後5か月で母親を亡くした私自身の軌跡に全く当てはまる。私が物心ついたときには、すでに「抵抗」「絶望」の段階を終え、「脱愛着」に達していたものと思われる。母親がいなくても「寂しい」「悲しい」と感じることはなかった。ただ「自分には何か欠けている」「自分(の境遇)は誰とも同じではない」といった不満感、孤独感は、古稀を過ぎた今でも、感じることがある。筆者はマルコ少年や斎藤茂吉の例を挙げているが、私の場合は、長谷川伸の「瞼の母」の心象風景がすぐに浮かんでくる。「会わなきゃよかった、泣かずにすんだ」という後悔すら、私にはない。どうすることもできない「絶望」「諦め」に戻っていくだけなのである。(2015.9.20)