梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

今、何をすべきか(1)

昨今の「コロナ禍」に関して、今、何をすべきか。
 まず第1に、専門家は「新型コロナウィルス感染症」という疾病の特性・特徴を、客観的に(根拠を示して)明らかにすることである。特に、これまでの経過(臨床経験)から得た知見にもとづいて、感染率、発症率、感染経路、症状、治療方法、治癒率、致死率、予防法等を、明確に《特定》することが重要である。これまでは《未知》の部分が多く、断片的で不確かな知見が多すぎた。例えば、マスクの効果(感染経路)の問題・・・、今では乳児を除くほぼ全員がマスクを着けている。にもかかわらず、感染の拡大は収まらない。ということはマスクを着けても感染は防げないということだ。「着けなければもっと拡大する」というのは推測にすぎず、根拠が示されていない。感染経路は、空気感染、飛沫感染、接触感染の《いずれもが該当する》のか否か、なども未だに曖昧である。致死率も2%程度と言われているが、臨床の立場から、この感染症のみが死因のケースはカウントしているのだろうか。厚生労働省の通達にしたがう限り、正確な致死率はわからない。感染が始まってから、すでに1年半が経過している。「まだわからない」のなら、専門家は存在価値を失うということである。
(2021.8.22)

小説・「黄昏のビギン」・第14章・《浴衣》

《第十四章 浴衣》
 微かな光の中で、あの歌声が聞こえた。


 夕空晴れて 黄昏の街
(以下割愛)
二人だけの 黄昏の街
 (以下割愛)


 目を開けると、マリ子の顔が見えた。私の頬に手のひらを当てて「キス」をした後で、
 「おはよう」
と、言った。
 「おはよう・・・。マリが歌っていたの?」
 「そうよ、知っているでしょ?『黄昏のビギン』・・・」
 「知っているとも。でも、歌詞が一つだけわからなかったんだ」(マリ子もカントのCDを聴いていたに違いない)
 「どこ?」
 「夕空晴れて 黄昏の街・・・の後だよ」
 「貴女の瞳 夜にうるんだ・・・じゃないかしら」
 「そうか、その前に、貴女の瞳に・うるむ星影ってあるから、そうなんだね」
 「どうでもいいじゃないの、そんなこと。どうせカントの知ったかぶりなんだから」
 「そうだね、ハハハハハ・・・・。」
 私たちは、心の底から、楽しく笑い合った。
 「朝ご飯にしましょう。コンビニでコーヒーとサンドイッチ買ってきたの」
 「そう、お金あったの?」
 「きのう、あなたがたこ焼きを買ってきたお釣りがテーブルの上に放り出してあったから、それを使ったの。悪かったかしら?」
 「とんでもない!それでいいんだよ。どうもありがとう」
 私たちは、シロにドッグフードと牛乳を与えた後、朝食をとった。
 「シロにはずいぶんお世話になったわ」
 「そうだね」
 「シロがいなければ、私たち、こんな風になっていなかったわよね」
 「そうかもしれないね」
 久しぶりに、爽やかな一日が送れそうだった。マリ子は縁側に行き、シロの頭を撫でながら言った。    
 「ジョー、私、このまま、ここに居ていいの?」
 「もちろん。『来る者は拒まず』だからね」
 「じゃあ?『去る者』はどうするの?」
 「もちろん・・・」と言いかけて、躊躇した。
 「『もちろん』どうするの?」、マリ子は畳みかけて問いかける。
 「もちろん、マリ子だったら追いかける!」
 「うれしい!」
マリ子は、私の体に両腕を腕を回して、キスをした。そのまま、真顔になって言った。
 「ジョー、私より先に死んではダメよ!」
 「?」
 「私、ジョーがいなくなったら、生きていけない! 絶対に死なないでね」
私は、何と答えていいか、わからなかった。しかし、少なくとも「生きていきたい」という気持ちが感じられて、私はうれしかった。
 「わかった。マリは生きたいんだね」
 「そう、生きたいの。ずっと、ずっと、ジョーと生きていきたいの」
 「わかったよ、絶対に死なないから、だいじょうぶだよ」
 「ありがとう」
 マリ子の顔には安堵の表情が見られた。やっと手にした「幸せ」というような・・・。
 私自身も安堵した。(とはいえ、本当に、マリ子より長く生きることができるだろうか? それにもまして「もちろん、マリ子だったら追いかける!」と答えたことはどうなるのか。「死ぬ」ということではないのか? そんなことは考える必要はない、マリ子は、現に、今こうして生きているではないか。それだけでいいことだ)
 私は、かすかに生じた迷いを打ち消して言った。
 「マリ、ちょっとテレビ見るよ」
 「どうぞ。私は、ここにいるわ。ここが好きなの」
 私は、居間に行き、テレビのスイッチを入れた。 
 再び、あの『黄昏のビギン』の歌が聞こえてきた。
(マリ子の歌は最高だ!ちあき・なおみを超えている。どことなく重苦しい、けだるさの漂った歌だと感じていたが、マリ子の歌声は爽やかで、透明感に溢れていた。なるほど、同じ曲でも、歌い方一つでこんなに違うものなんだ)
 私はテレビの音を小さくして、マリ子の歌に聴き入った。
 歌声が終わると、マリ子の声が聞こえた。
 「ジョー、少し横になってもいいかしら?」
 「どうぞ、どうぞ。ゆっくり疲れをとってください」
(しかし、この言葉が、私たちの最後の会話になろうとは、知る由もなかった)
 私は、一時間半ほどの「映画番組」に熱中していた。見終わって、「マリ!」と呼んだが返事がない。ベットに行くと、マリはうつぶせに横たわっていた。「マリ、マリ」と言いながら、私は肩を揺り動かした。しかし、目を開けない。「どうしたんだ!マリ!、おい、マリ!」と私は、頬を叩きながら、名前を呼び続けた。しかし、何の反応もなかった。
 「おかしい!」と直感し、私は救急車を要請した。まもなく、救急隊員が担架を持ってやって来た。
 「どうしました?」と言いながら、マリ子の様子を見るなり、顔色が変わった。しばらくマリ子の頸動脈に指を当てていたが、あわてて言った。                                                                          「脈がありません。すぐに搬送します。どこか病院は決まっていますか」
 「いえ、お任せします」
 顔面蒼白になりながら、隊員は近くの救急病院と連絡を取り始めた。十分ほどで搬送先の病院が決まり、私たちは救急車に乗り込んだ。(「昨日はパトカー、今日は救急車、昨日はパトカー、今日は救急車・・・・」、意味のない言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消えた。胸が早鐘をうつように苦しかった)
 病院に着くと、マリ子はすぐ救急病棟に運ばれた。私も、強いアルコール液で手を消毒し、病室に付き添った。
マリ子には酸素マスクがほどこされ、血圧計も装着された。モニターは五十を差していた。じっ見ていると、
 「もうすぐ三十に落ちますよ」という声が聞こえた。
 担当の女医だった。(嘘をつけ! マリ子は必ず回復する。私がここにいるのだから。今に見ていろ!回復する、回復する、回復する・・・・。私は「神」に念じた)
 マリ子の閉じられた瞼から、「黄色い涙」が流れ落ちた。女医は手早くガーゼを当てて処置した。
 一時間ほど血圧計のモニターが三十を差し続けていたが、その後、一気に落ちゼロに近づいた。
 女医は、「吸入器をはずします」、と言った。
あっけない最後だった。しかし、不思議と私の心は落ち着いていた。(これでいいのかもしれない。もうマリ子が苦しむことはない。オレの苦しさなんてたかが知れているではないか。でも耐えられる自信はなかった。『然のみならず患難も喜ぶ』という聖書の御言葉が湧いてきたが、すぐに消えた)
 看護婦に頼まれて、私はマリ子に着せる浴衣を買いに行った。(そう言えば、昨日からマリ子はずっとバスタオル一枚で過ごしていたのか。ごめんね)売店の店員に、
 「一番高い浴衣はどれですか?・・・・・ああ、それをください」 
と言い、缶入りの緑茶と一緒に買い求めた。
 しばらくして、浴衣を着せられたマリ子と私は、霊安室で対面した。誰もいなかった。私は缶入りの緑茶を口に含み、マリ子の口にそっと含ませた。
 それにしても、つい数時間前まで、マリ子と「生きていた」時間は何だったのだろうか?「私より先に死んではダメよ」といったマリ子の声が、耳を離れない。マリ子は、自分の「死」を予感していたのだろうか。せっかく「心の病気」がなおったと思ったのに。「心の病気」で突然、死ぬことなんてあるのだろうか。      
(しかし、ともかくも、私はマリ子との約束を果たすことができた。死因はいずれわかるだろう)
 私は、疑問を振り払うように、マリ子に最後の別れを告げた。
 「さようなら、ありがとう、マリ!」(もう会えないね・・・。言いようのない「淋しさ」が私を襲った。ポッカリと心の中に空白ができたことは間違いない)


 手を合わせて、霊安室を出ると、昨日の警官が待っていた。
 「やあ、しばらくでした」(自分でも、変な挨拶が口から出たと思ったが、実感だった。)
 「今日は、何のご用ですか?」
 生活安全課の主任・山田が、立ちふさがるようにして言った。
 「あの、花形マリ子さんのことで、お話を伺いたいんですが・・・・。」
 「何のことでしょう?」
 「いえね、マリ子さんは『変死』という扱いになりますので、警察の確認が必要と言うことで、伺ったわけです」
 私は、やっと「事態」がのみこめた。(そうだったのか?オレは疑われているのか、わかった、わかった。無理もない話だ。誰もマリ子の様子を見ていないんだから) 「ああ、そうでしたね。ぼんやりして気がつきませんでした。どうも失礼しました」
 いくぶん、山田の表情がおだやかになった。
 「それでは、ご同行いただけますか」
 「どうぞ、どうぞ。どこへでも行きますよ。何でもお話ししますよ」(私には、何も恐いものはない。隠し立てすることは、何もない)
 花形親子との出会い、その経過、昨日から今日までの出来事について、私は、すべてを説明した。
 山田たち警官はその話をメモし、私の自宅まで来て「現場検証」したが、それ以上の追及はしなかった。納得して帰って行ったようだった。私が花形親子の「身内」ではないことがわかったので、事後の処理は「法の定め」に基づいて行うそうだ。
 ただ、私は花形ユキの「現在の消息」については黙っていた。事実を確認したわけではないし、訊かれたわけではない。話す必要はないことだと確信していた。(「ユキの担当はカントで十分、少しくらい苦労させてやればいいんだわ」というマリ子の声が、聞こえるような気がした)
 翌日、○○警察署の山田主任から電話が入った。
 「花形マリ子さんの死因は、『肺動脈瘤破裂』でした。どうもお世話をおかけしました」
  「あたりまえだのクラッカー!」
 私は、戯れ言をいい、ふらふらとシロのいる縁側に行った。
  「シロ。マリ子さんは逝ってしまったよ。淋しいか?」
 シロは、一言「ワン」と応えた。 
 久しぶりに見る庭の、草花の周りには、たくさんの蜜蜂、足長蜂が群れ飛んでいる。
 夏の盛りがやって来ようとしていた。その情景を眺めながら、『冬蜂の死にどころなく歩きけり』という、村上鬼城の句を、私は、あらためて噛みしめた。
 ポッカリと空いてしまった心の穴は、当分、埋まらないだろう。「去る者は追わず」が、聞いてあきれる。お前の「半生」なんて・・・、お前の「半生」なんて・・・、と思ったきり、次の言葉が浮かばなかった。


 数日後、私は友人の医者に、マリ子の「心の病気」の詳細を伝え、死因を問いただした。意外な診断だった。
 彼はこともなげに言う。
 「それは、肺結核だよ。君にも感染しているかもしれない。気をつけた方がいいぞ!」
(そうだったのか! マリ子の本当の「ヒ・ミ・ツ!」が、わかったような気がした)
私は、うれしかった。(もうすぐ、マリ子に会えるのだ! マリ子は待っていてくれるだろうか)


 私は、すぐさま仏具屋に行き、位牌を作った。戒名は、自分で考えた。
 「清心院眞理慈恵大姉」(平成十三年七月十九日没・俗名・マリ・行年四十九歳)  
 「去来院晃山追眞居士」(平成○○年○月○○日没・俗名・晃  ・行年×××歳)
 そう連記された小さな位牌は、居間に置かれた仏壇の中の、養父母の隣りに並んでいる。あとは、空白の日付を埋めるばかりだ。(いつにしようか? いつでもよい!)
その前に、再びカントがやって来て、それを見たとき、彼は何と言うだろうか。《了》
(2006.7.20)

小説・「黄昏のビギン」・第13章・《乾杯》

《第十三章 乾杯》
 応接間の時計が、午後八時を知らせた。(そうか、もうこんな時間だったのか)
 私は、マリ子の体からそっと離れ、両手を握りながら言った。
 「マリ、おなか空いていないか?」
 マリ子は、にっこりとうなずいた。
 「そうか、じゃあ、二人で乾杯しよう」
 しかし、あらためてよく見ると、マリ子の体には汚れたバスタオルが 一枚貼りついているだけだった。下半身は、汚物にまみれている。
 「そうだ!その前に、二人でシャワーを浴びよう。いいかい?」
 マリ子は、子どものように大きくうなずいた。
 私は、マリ子を浴室に誘い、シャワーの前に立たせた。勢いよく出たぬるま湯が、マリ子の、頭から、顔、首筋、肩、胸、腹、腰の順に、流れ落ちて行く。私は、マリ子の全身を、手のひらで愛撫しながら、汚れを流し去っていった。泥人形のようだったマリ子の肢体は、見る見るうちに、ヴィーナスの立像のように輝きはじめた。(「そのマリ子という女性って、ジョーの神様なんじゃないかな?」というカントの言葉が浮かんできた。たしかにそうかもしれない)
マリ子の全身を、新しいバスタオルで拭き、包みながら、私は言った。
 「キレイになったよ、マリ。」
 マリ子は、嬉しそうにうなずくと、私に身を寄せ、手を握った。
 「さあ!乾杯だ!」
と、私は手を握ったまま、マリ子を居間のベットに連れて行き、そこに座らせた。
そうはいっても、冷蔵庫には何もない。(どうしようか?そうだ。いつも、角の信号の所に屋台が出ていることを思い出した。買ってこよう。)
 「マリ、ちょっと待っててね。今、食べる物を買ってくるから・・・」
 私は大急ぎで家を飛び出し、屋台のたこ焼きとコンビニの缶ビールを買い求めてきた。マリ子はベットの上で、静かな寝息を立てていた。(そうか、疲れているんだな)
 私は、そのまま、そっと寝かせてやろう、と思った。
その場に座って、ボンヤリとマリ子の寝姿を見つめていた。時折、手や足が、ピクッと動く。瞼もかすかに動いた。(夢を見ているんだろう。)そう思ったとき、大きく寝返りを打ちながら、マリ子の口が開いた。
 「ヤメテ! ナニスルノ! コワイヨーッ」
 私は、どうしてよいかわからなかった。でも、そっと片手を握り、もう一方の手で体をさすってやった。すると、「フーッ」と、長く大きい息を吐きながら、マリ子はまた寝息をたてはじめた。私はマリ子の手を握りながら、自分自身も意識が薄れていくのを防げなかった。時折、ギュッと握り返すようなマリ子の指、そのかすかな痙攣を感じながら・・・。


どれくらいの時間が経ったろうか。
 「ジョーさん、ジョーさん」、と呼ぶ声がして、私は目が覚めた。
 見ると、目の前に、マリ子の顔があった。
 「ジョーさん、起きてよ」
 「???・・・・・」
 私は、仰天した。マリ子の声が、いつもと違うのだ。(熟女の声に戻っている!) 何が起きているのかわからずに、力一杯、目をこすった。
 「何?どうしたって?」
 「ジョーさん、びっくりした?」
 「・・・・・?」
 「もう、私、病気なおったの」
 「・・・・・?」(私は、呆気にとられた)
 「ジョーさんのおかげよ、ありがとう」
 「・・・・・?」(信じていいのだろうか? こんなことってあるのだろうか? こんな簡単に「心の病気」は治るものなのか?)
 私は、金縛りにあったように、口がきけなかった。
 「ごめんなさいね、びっくりさせて。みんな私が悪いの」
 「・・・・・?」
 気持ちが動転し、頭の中が真っ白になってきた。(何を言えばいいか分からない。「失語症」とはこんな状態をいうのだろうか)
 「・・・・・。ドウイウコト?」絞り出すような声で、それだけ言うのがやっとだった。しかも、それは私の声とはほど遠い。「緊張」と「不安」が入り交じった、無表情な声だった。自分の方が「心の病気」に罹ってしまったようだ。
 「私の病気は、なおったの。いえ、病気なんて、もともとうそっぱちよ。」
 「・・・・・?」(マリ子の声が、私の心の外で響いている)
 「あの女が、『母親の振り』をするから、私も『病気の振り』をしてやっただけなの」 「ビョウキノ フリ?」(私は、「うわのそら」で応じている)
 「そうよ、『病気の振り』!さあ、乾杯しましょ!」
 「カンパイ?」(何のことだろうか?)
 「そうよ、乾杯するのよ。ジョーさん、私のために缶ビールとたこ焼き買ってきてくれたでしょ。うれしかったわ!」
 「ソウ?」(少し、記憶が戻ってきた)
マリ子は、私の体を揺すりながら言った。
 「どうしたの?ジョーさん。いつものジョーさんらしくないわ」
 「ダッテ!」
 「カントも言ってたでしょ。『オレは精神病なんて信じない』って。そのとおりよ。精神病なんて、はじめからないのよ!」
 「カント?」
 私は、雷に打たれたように、その場に倒れた。(もうダメだ!いったい何が起きているんだろう))
 「カントよ、ジョーーさんの幼友達のカ・ン・ト!」(どうして、マリ子がカントのことを知っているのか! 全く「理解不能」「意味不明」だった)
 言いようのない驚き、怒りと悔しさ、嫉妬と恥辱で心がはり裂けそうだった。(私は、これまで何をしてきたのか? 私は騙されていたのか? 弄ばれていたのか!)
 私の顔も、身体も「石膏像」のように固まって見えただろう。
そんな私を、溶きほぐすように、マリ子は、私を抱きかかえると、やさしく愛撫しながら、耳元でささやいた。
 「ごめんね、ジョー。振り回しちゃって。でも、あなたの気持ちを試そうなんて思ったことは一度もなかった。ただ、本当のことを言うチャンスがなかっただけなの」
 「ホントウノコト?」
 「そう、本当のこと。カントは、私の先生、小学校時代の。」(えっ?何だって? それではユキとカントも「知り合い」だったのか!)
 「ジャア、カントはユキさんと・・・・?」
 「そうよ、そうよ。何十年来の知り合いよ」(・・・そうか。あの「悪夢」に出てきたカントの姿は本当だったのか! カントは、私を陥れようとしている! 私の心は、どうしようもない「不信感」でいっぱいになった。)
 「コノマエ、カントガ タズネテキタケド、アイツ、ソンナコト、ナニモイワナカッタ」
 「そこが、あいつのずるいところ。教師なんてそんなものなのよ」
 「アイツ ナニシニ キタンダロウ?」(私は、カントと花形親子の関係を疑っていた)
 「あの女に頼まれて、様子でも見に来たんでしょ!でも、ジョー、そんなこと気にすることはない。あなたは何にも悪いことはしていないんですもの」
 「ソウダヨネ」(オレは何も悪いことはしていない、そうだ、そのとおりだ! マリ子の一言で、救われたような気がした。マリ子は私を受け容れてくれるのだ。少し、気持ちが楽になった)
 「悪いのは私。もう、許してはもらえないわね」
 私は、逡巡した。許すも、許さないもない。マリ子は、もう私の「許容範囲」を超えて、得体の知れない世界を漂う女のようになってしまったではないか。
でも、マリ子の肢体には未練があった。カントの言うように、私たちは「動物の本能」から逃れることはできないのだろう。マリ子を選ぶかどうか、それは私自身の問題なのだ。泥人形のようなマリ子を抱きしめたとき、(もう離さない、一生このままでいたい)と思ったのは嘘だったのか。ジョー、オマエにまだ守るものがあるのか。「身から出た錆」の過去なんて、どれほどの意味があるというのか。「自由」と「独立」がそんなに大切だと思うのか)みんな捨ててしまえばいい、オレの半生なんて、何が何だかわからないではないか、一体全体、「オマエ」という人間に、どれだけの価値があるというのか。そう自分に言い聞かせると、楽になった。気持ちが吹っ切れた。(そうだよな、「オマエ」なんてどうなったってかまわない。もう少し、マリ子と「かかわって」みよう)そう決めると、固まっていた身体の「緊張」が溶け、自然な声が出せるようになってきた。  
 私は、マリ子に身を預けたまま、彼女の顔を直視して、静かに言った。
 「どうして、マリは悪いと思うの」
 「だって、あなたを騙していたもの」
 「それだけ?」
 「まだ、まだいっぱいあるわよ、でも、それはヒ・ミ・ツ!」(愛しい!と思った)
 「知りたいな」
 「あとで教えてあげる。乾杯しましょ!」
ようやく、私は起きあがり、マリ子と乾杯した。マリ子はたこ焼きをレンジで暖め、皿に盛りつけてきた。(私の「心の病気」は消えていった)
 「おいしそうなたこ焼き!今日は、本当にうれしかった」
 「そうかな」(私もうれしかった)
 「あなただけよ。私の『病気』を信じなかった人!」
 「どうして『病気の振り』をしていたの?」
 「私自身を守るため。でも、もう疲れちゃった。それに、あなたに会えたんですもの。もう守る必要がなくなったわ。あなたが、私のこと守ってくれるでしょ?」
 「そうだね」(「もう離さない。一生このままでいたい」と思ったのは嘘ではなかった!)
 「私ね、小さいとき、『売られた』の。四国の田舎で生まれたんだけど、家が貧しくて、あの女と旦那、その夫婦に買われて、養女になったの」
 「ふうん」(私は、このまえユキから聞いた話と比べはじめていた)
 「だから、本当の両親は知らない」
 「・・・・」 
 「もしかしたら、私のお父さんって、ジョーさんみたいだったかもしれないわ」
 「そうかな」 
 「私の知っている父親は、ひどい人だった!」
 「・・・・」  
 「小さい頃は、可愛がってくれたけど・・・。毎晩、私の体を触りに来るの。私が小学校に入り、中学生、高校生になってもよ。信じられる?」
 「信じられない」(私は、マリ子の気持ちが途切れないように「無条件の同意」を重ねようと思った)
 「私は、どこの父親もそうするものだと思っていた。信じられる?」
 「信じられない」
 「あの女は、それを知りながら、黙っていたわ、信じられる?」
 「信じられない」
 「ある時、あの女に聞いてみた。『お父さんはどうして毎晩、私の所に来るの?』」
 「そうしたら、あの女は言った。『あなたは、私たちに買われてきたのよ。自分の立場をよく考えなさい』だって」
 「・・・・」(本当だろうか? でも私はマリ子を信じているのだ!)
 「目の前が真っ暗になった。生まれてこなければよかった、死にたいと思った。でも死ねない。だから『病気の振り』をしなければならなかった。男って恐い、女も恐い。人間なんて、みんな恐い。でも『病気の振り』をすれば、みんな近寄らないということを覚えたの」
 「・・・・」(そうかもしれない。昔から『狂女』に近づこうとする男はいなかった)
 「あの夫婦に言われて結婚もした。男の子も生まれた。でも、気持ちは変わらなかった。」
 「ずいぶん、ひどい目にあったね」
 「わかる?あなただけなの、そう言ってくれるのは」
 マリ子の瞳から大粒の涙がこぼれ出し、私の体に身を任せて泣き崩れた。私は、マリ子の体を力一杯抱きしめた。(可哀想に、もう心配ないよ・・・。今度は、私がマリ子を守る番なのだ)


 一時、そうしていたが、マリ子は意を決したように顔をあげ、私の顔をキッと見つめながら、乾いた声で言い放った。
 「あの女は、今朝、死んだわ」
 「えっ?」(驚いた『振り』をしていたが、覚悟していたことだった)
 「そう、あの女は死んだの。まだ、あの家に独りでいる!」
(そうか、やっぱり・・・・。予感は的中した。しかし、私はもう動揺しなかった)
 「でも、心配しないで。私が殺したわけじゃない。気がつくと、死んでたの」
 私は、マリ子を強く抱きしめながら言った。
 「信じるよ、マリが人を殺すはずがない!」
 「うれしい!」
マリ子は、再び私の体に顔を埋め、激しく嗚咽した。
 「だいじょうぶだよ。調べればわかることだ。ジョーは、いつもマリと一緒だよ」
 私は、そのままマリ子をベットに運び、裸になった。
(明日から、マリ子との生活が始まる。これからは、この「神様」と生きていこう。オレは幸せだ)
 やっと、本当の「人生」が始まるよう気がした。 
 私は、マリ子が求めるままに体を重ね、彼女の、寄せては返す「うねり」のような腰の動きに身を任せた。大きな胸の谷間に顔を埋め、時には嵐のようなマリ子の吐息を確かめながら、下腹部の密林に吸い込まれていった。「マリ、マリ!」と囁きながら、私が下になる。マリ子はその豊満な肢体のすべてを私に乗せ、時には強く、時には小刻みに、波打たせ、大きく空を仰いだかと思うと、激しくふるえ、「ジョー」と 叫びながら果てた。そのまま、マリ子は入眠した。私は、マリ子の規則的な「波動」「重さ」を下腹部で快く感じながら、(マリ、好きだよ。この「重さ」がマリ子なんだよね)と確信していた。
(2006.7.20)