梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・「黄昏のビギン」・第13章・《乾杯》

《第十三章 乾杯》
 応接間の時計が、午後八時を知らせた。(そうか、もうこんな時間だったのか)
 私は、マリ子の体からそっと離れ、両手を握りながら言った。
 「マリ、おなか空いていないか?」
 マリ子は、にっこりとうなずいた。
 「そうか、じゃあ、二人で乾杯しよう」
 しかし、あらためてよく見ると、マリ子の体には汚れたバスタオルが 一枚貼りついているだけだった。下半身は、汚物にまみれている。
 「そうだ!その前に、二人でシャワーを浴びよう。いいかい?」
 マリ子は、子どものように大きくうなずいた。
 私は、マリ子を浴室に誘い、シャワーの前に立たせた。勢いよく出たぬるま湯が、マリ子の、頭から、顔、首筋、肩、胸、腹、腰の順に、流れ落ちて行く。私は、マリ子の全身を、手のひらで愛撫しながら、汚れを流し去っていった。泥人形のようだったマリ子の肢体は、見る見るうちに、ヴィーナスの立像のように輝きはじめた。(「そのマリ子という女性って、ジョーの神様なんじゃないかな?」というカントの言葉が浮かんできた。たしかにそうかもしれない)
マリ子の全身を、新しいバスタオルで拭き、包みながら、私は言った。
 「キレイになったよ、マリ。」
 マリ子は、嬉しそうにうなずくと、私に身を寄せ、手を握った。
 「さあ!乾杯だ!」
と、私は手を握ったまま、マリ子を居間のベットに連れて行き、そこに座らせた。
そうはいっても、冷蔵庫には何もない。(どうしようか?そうだ。いつも、角の信号の所に屋台が出ていることを思い出した。買ってこよう。)
 「マリ、ちょっと待っててね。今、食べる物を買ってくるから・・・」
 私は大急ぎで家を飛び出し、屋台のたこ焼きとコンビニの缶ビールを買い求めてきた。マリ子はベットの上で、静かな寝息を立てていた。(そうか、疲れているんだな)
 私は、そのまま、そっと寝かせてやろう、と思った。
その場に座って、ボンヤリとマリ子の寝姿を見つめていた。時折、手や足が、ピクッと動く。瞼もかすかに動いた。(夢を見ているんだろう。)そう思ったとき、大きく寝返りを打ちながら、マリ子の口が開いた。
 「ヤメテ! ナニスルノ! コワイヨーッ」
 私は、どうしてよいかわからなかった。でも、そっと片手を握り、もう一方の手で体をさすってやった。すると、「フーッ」と、長く大きい息を吐きながら、マリ子はまた寝息をたてはじめた。私はマリ子の手を握りながら、自分自身も意識が薄れていくのを防げなかった。時折、ギュッと握り返すようなマリ子の指、そのかすかな痙攣を感じながら・・・。


どれくらいの時間が経ったろうか。
 「ジョーさん、ジョーさん」、と呼ぶ声がして、私は目が覚めた。
 見ると、目の前に、マリ子の顔があった。
 「ジョーさん、起きてよ」
 「???・・・・・」
 私は、仰天した。マリ子の声が、いつもと違うのだ。(熟女の声に戻っている!) 何が起きているのかわからずに、力一杯、目をこすった。
 「何?どうしたって?」
 「ジョーさん、びっくりした?」
 「・・・・・?」
 「もう、私、病気なおったの」
 「・・・・・?」(私は、呆気にとられた)
 「ジョーさんのおかげよ、ありがとう」
 「・・・・・?」(信じていいのだろうか? こんなことってあるのだろうか? こんな簡単に「心の病気」は治るものなのか?)
 私は、金縛りにあったように、口がきけなかった。
 「ごめんなさいね、びっくりさせて。みんな私が悪いの」
 「・・・・・?」
 気持ちが動転し、頭の中が真っ白になってきた。(何を言えばいいか分からない。「失語症」とはこんな状態をいうのだろうか)
 「・・・・・。ドウイウコト?」絞り出すような声で、それだけ言うのがやっとだった。しかも、それは私の声とはほど遠い。「緊張」と「不安」が入り交じった、無表情な声だった。自分の方が「心の病気」に罹ってしまったようだ。
 「私の病気は、なおったの。いえ、病気なんて、もともとうそっぱちよ。」
 「・・・・・?」(マリ子の声が、私の心の外で響いている)
 「あの女が、『母親の振り』をするから、私も『病気の振り』をしてやっただけなの」 「ビョウキノ フリ?」(私は、「うわのそら」で応じている)
 「そうよ、『病気の振り』!さあ、乾杯しましょ!」
 「カンパイ?」(何のことだろうか?)
 「そうよ、乾杯するのよ。ジョーさん、私のために缶ビールとたこ焼き買ってきてくれたでしょ。うれしかったわ!」
 「ソウ?」(少し、記憶が戻ってきた)
マリ子は、私の体を揺すりながら言った。
 「どうしたの?ジョーさん。いつものジョーさんらしくないわ」
 「ダッテ!」
 「カントも言ってたでしょ。『オレは精神病なんて信じない』って。そのとおりよ。精神病なんて、はじめからないのよ!」
 「カント?」
 私は、雷に打たれたように、その場に倒れた。(もうダメだ!いったい何が起きているんだろう))
 「カントよ、ジョーーさんの幼友達のカ・ン・ト!」(どうして、マリ子がカントのことを知っているのか! 全く「理解不能」「意味不明」だった)
 言いようのない驚き、怒りと悔しさ、嫉妬と恥辱で心がはり裂けそうだった。(私は、これまで何をしてきたのか? 私は騙されていたのか? 弄ばれていたのか!)
 私の顔も、身体も「石膏像」のように固まって見えただろう。
そんな私を、溶きほぐすように、マリ子は、私を抱きかかえると、やさしく愛撫しながら、耳元でささやいた。
 「ごめんね、ジョー。振り回しちゃって。でも、あなたの気持ちを試そうなんて思ったことは一度もなかった。ただ、本当のことを言うチャンスがなかっただけなの」
 「ホントウノコト?」
 「そう、本当のこと。カントは、私の先生、小学校時代の。」(えっ?何だって? それではユキとカントも「知り合い」だったのか!)
 「ジャア、カントはユキさんと・・・・?」
 「そうよ、そうよ。何十年来の知り合いよ」(・・・そうか。あの「悪夢」に出てきたカントの姿は本当だったのか! カントは、私を陥れようとしている! 私の心は、どうしようもない「不信感」でいっぱいになった。)
 「コノマエ、カントガ タズネテキタケド、アイツ、ソンナコト、ナニモイワナカッタ」
 「そこが、あいつのずるいところ。教師なんてそんなものなのよ」
 「アイツ ナニシニ キタンダロウ?」(私は、カントと花形親子の関係を疑っていた)
 「あの女に頼まれて、様子でも見に来たんでしょ!でも、ジョー、そんなこと気にすることはない。あなたは何にも悪いことはしていないんですもの」
 「ソウダヨネ」(オレは何も悪いことはしていない、そうだ、そのとおりだ! マリ子の一言で、救われたような気がした。マリ子は私を受け容れてくれるのだ。少し、気持ちが楽になった)
 「悪いのは私。もう、許してはもらえないわね」
 私は、逡巡した。許すも、許さないもない。マリ子は、もう私の「許容範囲」を超えて、得体の知れない世界を漂う女のようになってしまったではないか。
でも、マリ子の肢体には未練があった。カントの言うように、私たちは「動物の本能」から逃れることはできないのだろう。マリ子を選ぶかどうか、それは私自身の問題なのだ。泥人形のようなマリ子を抱きしめたとき、(もう離さない、一生このままでいたい)と思ったのは嘘だったのか。ジョー、オマエにまだ守るものがあるのか。「身から出た錆」の過去なんて、どれほどの意味があるというのか。「自由」と「独立」がそんなに大切だと思うのか)みんな捨ててしまえばいい、オレの半生なんて、何が何だかわからないではないか、一体全体、「オマエ」という人間に、どれだけの価値があるというのか。そう自分に言い聞かせると、楽になった。気持ちが吹っ切れた。(そうだよな、「オマエ」なんてどうなったってかまわない。もう少し、マリ子と「かかわって」みよう)そう決めると、固まっていた身体の「緊張」が溶け、自然な声が出せるようになってきた。  
 私は、マリ子に身を預けたまま、彼女の顔を直視して、静かに言った。
 「どうして、マリは悪いと思うの」
 「だって、あなたを騙していたもの」
 「それだけ?」
 「まだ、まだいっぱいあるわよ、でも、それはヒ・ミ・ツ!」(愛しい!と思った)
 「知りたいな」
 「あとで教えてあげる。乾杯しましょ!」
ようやく、私は起きあがり、マリ子と乾杯した。マリ子はたこ焼きをレンジで暖め、皿に盛りつけてきた。(私の「心の病気」は消えていった)
 「おいしそうなたこ焼き!今日は、本当にうれしかった」
 「そうかな」(私もうれしかった)
 「あなただけよ。私の『病気』を信じなかった人!」
 「どうして『病気の振り』をしていたの?」
 「私自身を守るため。でも、もう疲れちゃった。それに、あなたに会えたんですもの。もう守る必要がなくなったわ。あなたが、私のこと守ってくれるでしょ?」
 「そうだね」(「もう離さない。一生このままでいたい」と思ったのは嘘ではなかった!)
 「私ね、小さいとき、『売られた』の。四国の田舎で生まれたんだけど、家が貧しくて、あの女と旦那、その夫婦に買われて、養女になったの」
 「ふうん」(私は、このまえユキから聞いた話と比べはじめていた)
 「だから、本当の両親は知らない」
 「・・・・」 
 「もしかしたら、私のお父さんって、ジョーさんみたいだったかもしれないわ」
 「そうかな」 
 「私の知っている父親は、ひどい人だった!」
 「・・・・」  
 「小さい頃は、可愛がってくれたけど・・・。毎晩、私の体を触りに来るの。私が小学校に入り、中学生、高校生になってもよ。信じられる?」
 「信じられない」(私は、マリ子の気持ちが途切れないように「無条件の同意」を重ねようと思った)
 「私は、どこの父親もそうするものだと思っていた。信じられる?」
 「信じられない」
 「あの女は、それを知りながら、黙っていたわ、信じられる?」
 「信じられない」
 「ある時、あの女に聞いてみた。『お父さんはどうして毎晩、私の所に来るの?』」
 「そうしたら、あの女は言った。『あなたは、私たちに買われてきたのよ。自分の立場をよく考えなさい』だって」
 「・・・・」(本当だろうか? でも私はマリ子を信じているのだ!)
 「目の前が真っ暗になった。生まれてこなければよかった、死にたいと思った。でも死ねない。だから『病気の振り』をしなければならなかった。男って恐い、女も恐い。人間なんて、みんな恐い。でも『病気の振り』をすれば、みんな近寄らないということを覚えたの」
 「・・・・」(そうかもしれない。昔から『狂女』に近づこうとする男はいなかった)
 「あの夫婦に言われて結婚もした。男の子も生まれた。でも、気持ちは変わらなかった。」
 「ずいぶん、ひどい目にあったね」
 「わかる?あなただけなの、そう言ってくれるのは」
 マリ子の瞳から大粒の涙がこぼれ出し、私の体に身を任せて泣き崩れた。私は、マリ子の体を力一杯抱きしめた。(可哀想に、もう心配ないよ・・・。今度は、私がマリ子を守る番なのだ)


 一時、そうしていたが、マリ子は意を決したように顔をあげ、私の顔をキッと見つめながら、乾いた声で言い放った。
 「あの女は、今朝、死んだわ」
 「えっ?」(驚いた『振り』をしていたが、覚悟していたことだった)
 「そう、あの女は死んだの。まだ、あの家に独りでいる!」
(そうか、やっぱり・・・・。予感は的中した。しかし、私はもう動揺しなかった)
 「でも、心配しないで。私が殺したわけじゃない。気がつくと、死んでたの」
 私は、マリ子を強く抱きしめながら言った。
 「信じるよ、マリが人を殺すはずがない!」
 「うれしい!」
マリ子は、再び私の体に顔を埋め、激しく嗚咽した。
 「だいじょうぶだよ。調べればわかることだ。ジョーは、いつもマリと一緒だよ」
 私は、そのままマリ子をベットに運び、裸になった。
(明日から、マリ子との生活が始まる。これからは、この「神様」と生きていこう。オレは幸せだ)
 やっと、本当の「人生」が始まるよう気がした。 
 私は、マリ子が求めるままに体を重ね、彼女の、寄せては返す「うねり」のような腰の動きに身を任せた。大きな胸の谷間に顔を埋め、時には嵐のようなマリ子の吐息を確かめながら、下腹部の密林に吸い込まれていった。「マリ、マリ!」と囁きながら、私が下になる。マリ子はその豊満な肢体のすべてを私に乗せ、時には強く、時には小刻みに、波打たせ、大きく空を仰いだかと思うと、激しくふるえ、「ジョー」と 叫びながら果てた。そのまま、マリ子は入眠した。私は、マリ子の規則的な「波動」「重さ」を下腹部で快く感じながら、(マリ、好きだよ。この「重さ」がマリ子なんだよね)と確信していた。
(2006.7.20)