梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・「黄昏のビギン」・第14章・《浴衣》

《第十四章 浴衣》
 微かな光の中で、あの歌声が聞こえた。


 夕空晴れて 黄昏の街
(以下割愛)
二人だけの 黄昏の街
 (以下割愛)


 目を開けると、マリ子の顔が見えた。私の頬に手のひらを当てて「キス」をした後で、
 「おはよう」
と、言った。
 「おはよう・・・。マリが歌っていたの?」
 「そうよ、知っているでしょ?『黄昏のビギン』・・・」
 「知っているとも。でも、歌詞が一つだけわからなかったんだ」(マリ子もカントのCDを聴いていたに違いない)
 「どこ?」
 「夕空晴れて 黄昏の街・・・の後だよ」
 「貴女の瞳 夜にうるんだ・・・じゃないかしら」
 「そうか、その前に、貴女の瞳に・うるむ星影ってあるから、そうなんだね」
 「どうでもいいじゃないの、そんなこと。どうせカントの知ったかぶりなんだから」
 「そうだね、ハハハハハ・・・・。」
 私たちは、心の底から、楽しく笑い合った。
 「朝ご飯にしましょう。コンビニでコーヒーとサンドイッチ買ってきたの」
 「そう、お金あったの?」
 「きのう、あなたがたこ焼きを買ってきたお釣りがテーブルの上に放り出してあったから、それを使ったの。悪かったかしら?」
 「とんでもない!それでいいんだよ。どうもありがとう」
 私たちは、シロにドッグフードと牛乳を与えた後、朝食をとった。
 「シロにはずいぶんお世話になったわ」
 「そうだね」
 「シロがいなければ、私たち、こんな風になっていなかったわよね」
 「そうかもしれないね」
 久しぶりに、爽やかな一日が送れそうだった。マリ子は縁側に行き、シロの頭を撫でながら言った。    
 「ジョー、私、このまま、ここに居ていいの?」
 「もちろん。『来る者は拒まず』だからね」
 「じゃあ?『去る者』はどうするの?」
 「もちろん・・・」と言いかけて、躊躇した。
 「『もちろん』どうするの?」、マリ子は畳みかけて問いかける。
 「もちろん、マリ子だったら追いかける!」
 「うれしい!」
マリ子は、私の体に両腕を腕を回して、キスをした。そのまま、真顔になって言った。
 「ジョー、私より先に死んではダメよ!」
 「?」
 「私、ジョーがいなくなったら、生きていけない! 絶対に死なないでね」
私は、何と答えていいか、わからなかった。しかし、少なくとも「生きていきたい」という気持ちが感じられて、私はうれしかった。
 「わかった。マリは生きたいんだね」
 「そう、生きたいの。ずっと、ずっと、ジョーと生きていきたいの」
 「わかったよ、絶対に死なないから、だいじょうぶだよ」
 「ありがとう」
 マリ子の顔には安堵の表情が見られた。やっと手にした「幸せ」というような・・・。
 私自身も安堵した。(とはいえ、本当に、マリ子より長く生きることができるだろうか? それにもまして「もちろん、マリ子だったら追いかける!」と答えたことはどうなるのか。「死ぬ」ということではないのか? そんなことは考える必要はない、マリ子は、現に、今こうして生きているではないか。それだけでいいことだ)
 私は、かすかに生じた迷いを打ち消して言った。
 「マリ、ちょっとテレビ見るよ」
 「どうぞ。私は、ここにいるわ。ここが好きなの」
 私は、居間に行き、テレビのスイッチを入れた。 
 再び、あの『黄昏のビギン』の歌が聞こえてきた。
(マリ子の歌は最高だ!ちあき・なおみを超えている。どことなく重苦しい、けだるさの漂った歌だと感じていたが、マリ子の歌声は爽やかで、透明感に溢れていた。なるほど、同じ曲でも、歌い方一つでこんなに違うものなんだ)
 私はテレビの音を小さくして、マリ子の歌に聴き入った。
 歌声が終わると、マリ子の声が聞こえた。
 「ジョー、少し横になってもいいかしら?」
 「どうぞ、どうぞ。ゆっくり疲れをとってください」
(しかし、この言葉が、私たちの最後の会話になろうとは、知る由もなかった)
 私は、一時間半ほどの「映画番組」に熱中していた。見終わって、「マリ!」と呼んだが返事がない。ベットに行くと、マリはうつぶせに横たわっていた。「マリ、マリ」と言いながら、私は肩を揺り動かした。しかし、目を開けない。「どうしたんだ!マリ!、おい、マリ!」と私は、頬を叩きながら、名前を呼び続けた。しかし、何の反応もなかった。
 「おかしい!」と直感し、私は救急車を要請した。まもなく、救急隊員が担架を持ってやって来た。
 「どうしました?」と言いながら、マリ子の様子を見るなり、顔色が変わった。しばらくマリ子の頸動脈に指を当てていたが、あわてて言った。                                                                          「脈がありません。すぐに搬送します。どこか病院は決まっていますか」
 「いえ、お任せします」
 顔面蒼白になりながら、隊員は近くの救急病院と連絡を取り始めた。十分ほどで搬送先の病院が決まり、私たちは救急車に乗り込んだ。(「昨日はパトカー、今日は救急車、昨日はパトカー、今日は救急車・・・・」、意味のない言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消えた。胸が早鐘をうつように苦しかった)
 病院に着くと、マリ子はすぐ救急病棟に運ばれた。私も、強いアルコール液で手を消毒し、病室に付き添った。
マリ子には酸素マスクがほどこされ、血圧計も装着された。モニターは五十を差していた。じっ見ていると、
 「もうすぐ三十に落ちますよ」という声が聞こえた。
 担当の女医だった。(嘘をつけ! マリ子は必ず回復する。私がここにいるのだから。今に見ていろ!回復する、回復する、回復する・・・・。私は「神」に念じた)
 マリ子の閉じられた瞼から、「黄色い涙」が流れ落ちた。女医は手早くガーゼを当てて処置した。
 一時間ほど血圧計のモニターが三十を差し続けていたが、その後、一気に落ちゼロに近づいた。
 女医は、「吸入器をはずします」、と言った。
あっけない最後だった。しかし、不思議と私の心は落ち着いていた。(これでいいのかもしれない。もうマリ子が苦しむことはない。オレの苦しさなんてたかが知れているではないか。でも耐えられる自信はなかった。『然のみならず患難も喜ぶ』という聖書の御言葉が湧いてきたが、すぐに消えた)
 看護婦に頼まれて、私はマリ子に着せる浴衣を買いに行った。(そう言えば、昨日からマリ子はずっとバスタオル一枚で過ごしていたのか。ごめんね)売店の店員に、
 「一番高い浴衣はどれですか?・・・・・ああ、それをください」 
と言い、缶入りの緑茶と一緒に買い求めた。
 しばらくして、浴衣を着せられたマリ子と私は、霊安室で対面した。誰もいなかった。私は缶入りの緑茶を口に含み、マリ子の口にそっと含ませた。
 それにしても、つい数時間前まで、マリ子と「生きていた」時間は何だったのだろうか?「私より先に死んではダメよ」といったマリ子の声が、耳を離れない。マリ子は、自分の「死」を予感していたのだろうか。せっかく「心の病気」がなおったと思ったのに。「心の病気」で突然、死ぬことなんてあるのだろうか。      
(しかし、ともかくも、私はマリ子との約束を果たすことができた。死因はいずれわかるだろう)
 私は、疑問を振り払うように、マリ子に最後の別れを告げた。
 「さようなら、ありがとう、マリ!」(もう会えないね・・・。言いようのない「淋しさ」が私を襲った。ポッカリと心の中に空白ができたことは間違いない)


 手を合わせて、霊安室を出ると、昨日の警官が待っていた。
 「やあ、しばらくでした」(自分でも、変な挨拶が口から出たと思ったが、実感だった。)
 「今日は、何のご用ですか?」
 生活安全課の主任・山田が、立ちふさがるようにして言った。
 「あの、花形マリ子さんのことで、お話を伺いたいんですが・・・・。」
 「何のことでしょう?」
 「いえね、マリ子さんは『変死』という扱いになりますので、警察の確認が必要と言うことで、伺ったわけです」
 私は、やっと「事態」がのみこめた。(そうだったのか?オレは疑われているのか、わかった、わかった。無理もない話だ。誰もマリ子の様子を見ていないんだから) 「ああ、そうでしたね。ぼんやりして気がつきませんでした。どうも失礼しました」
 いくぶん、山田の表情がおだやかになった。
 「それでは、ご同行いただけますか」
 「どうぞ、どうぞ。どこへでも行きますよ。何でもお話ししますよ」(私には、何も恐いものはない。隠し立てすることは、何もない)
 花形親子との出会い、その経過、昨日から今日までの出来事について、私は、すべてを説明した。
 山田たち警官はその話をメモし、私の自宅まで来て「現場検証」したが、それ以上の追及はしなかった。納得して帰って行ったようだった。私が花形親子の「身内」ではないことがわかったので、事後の処理は「法の定め」に基づいて行うそうだ。
 ただ、私は花形ユキの「現在の消息」については黙っていた。事実を確認したわけではないし、訊かれたわけではない。話す必要はないことだと確信していた。(「ユキの担当はカントで十分、少しくらい苦労させてやればいいんだわ」というマリ子の声が、聞こえるような気がした)
 翌日、○○警察署の山田主任から電話が入った。
 「花形マリ子さんの死因は、『肺動脈瘤破裂』でした。どうもお世話をおかけしました」
  「あたりまえだのクラッカー!」
 私は、戯れ言をいい、ふらふらとシロのいる縁側に行った。
  「シロ。マリ子さんは逝ってしまったよ。淋しいか?」
 シロは、一言「ワン」と応えた。 
 久しぶりに見る庭の、草花の周りには、たくさんの蜜蜂、足長蜂が群れ飛んでいる。
 夏の盛りがやって来ようとしていた。その情景を眺めながら、『冬蜂の死にどころなく歩きけり』という、村上鬼城の句を、私は、あらためて噛みしめた。
 ポッカリと空いてしまった心の穴は、当分、埋まらないだろう。「去る者は追わず」が、聞いてあきれる。お前の「半生」なんて・・・、お前の「半生」なんて・・・、と思ったきり、次の言葉が浮かばなかった。


 数日後、私は友人の医者に、マリ子の「心の病気」の詳細を伝え、死因を問いただした。意外な診断だった。
 彼はこともなげに言う。
 「それは、肺結核だよ。君にも感染しているかもしれない。気をつけた方がいいぞ!」
(そうだったのか! マリ子の本当の「ヒ・ミ・ツ!」が、わかったような気がした)
私は、うれしかった。(もうすぐ、マリ子に会えるのだ! マリ子は待っていてくれるだろうか)


 私は、すぐさま仏具屋に行き、位牌を作った。戒名は、自分で考えた。
 「清心院眞理慈恵大姉」(平成十三年七月十九日没・俗名・マリ・行年四十九歳)  
 「去来院晃山追眞居士」(平成○○年○月○○日没・俗名・晃  ・行年×××歳)
 そう連記された小さな位牌は、居間に置かれた仏壇の中の、養父母の隣りに並んでいる。あとは、空白の日付を埋めるばかりだ。(いつにしようか? いつでもよい!)
その前に、再びカントがやって来て、それを見たとき、彼は何と言うだろうか。《了》
(2006.7.20)