梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症 治癒への道」解読・《23》第10章 事例(2)【六人の自己流治療例】(2)オルガ

◎要約
【六人の自己流治療例】 
《オルガ》(1946年5月生まれ・第2子・姉はヘレン)
・妊娠中は正常であったが、陣痛促進処置をした。体重3500グラム。出産後、翌日になるまで子どもは母親に渡されず、母乳を与えることができなかった。出産後3日目に、オルガは疱瘡にかかり、母子一緒に隔離病棟に移され1週間入院した。オルガは3時間毎にペニシリン注射をされた。泣き叫ぶ声が聞こえても母親はなだめてやることが許されなかった。しかし、そのほかの時間には母乳を与えることができた。完治した後、家に戻ったが、そこは借家で、母親は家賃代わりに家主(独身農夫)の主婦代わりをした。(父親は中東で軍務に就いていた)
・6週間後、再び疱瘡が現れ、母子は再度入院した。そこでは母親がオルガの世話をすることが許された。
・6か月の時、母親には用事のため親友に12時間オルガを預けたが、ひっきりなしに泣いて、食物は何も食べなかった。
・農夫の家では、(農夫が酒びたりのため)母親の心労が重なった。
・11か月の時、母親は子どもたちを連れて、(母親の)父親の家(何の設備も無い小さな小屋)に転がり込んだ。                                                 
・その直後、最初の兆候が現れた。「乳母車をゆすり始め、ある 時は車がひっくりかえった。ベッドも、激しくゆすっていた。                                           
・オルガの父親は除隊、しばらく遠隔地に教職復帰、単身赴任していたが、1947年9月(オルガ1歳4か月)から新居を入手し同居するようになった。母親の弟も同居し、母親の仕事を繁雑にした。
・オルガの身体発達は年齢並みであったが「固形物をたべなかった」「ものわかりのいい赤ちゃんだった」。しかし、すぐそばにある物にも手を出そうとしなかったし、手に持たせても持っていなかった。名前を呼んでも反応がなく、聾のようにみえた。母親の顔も、他の人の顔も見ようとしなかった。
・2歳の時、ことばはまだ「ブルーベル」(花の意)という単語一つしかなかった。発音ははっきりしていた。
・3歳の時、音楽に対する異常な関心を示し、母親がオルガを連れて階段を上がっていると「ドレミファ・・・と、まったく正しいメロディーで音階を歌いあげていき」、母親が音階を歌い下げていったら、まねをした。
・3歳から6歳まで、たびたびかんしゃくを起こした。また「びろうど、毛皮、髪の毛」をさわったり、なでたりした。頭を片方へ向けて、自分の指の間から空をのぞいていた。顔をしかめていた。ぐるぐる回っても、目が回る様子はなかった。変わったものに執着して大きな赤い消防自動車とテーブルスプーンをベッドに持ち込み、自分の寝る場所がなくなってしまった。長い距離をつまさきで歩いていた。
・3歳6か月の時、家族で馬のショーを見に行った。ちょっとオルガの手を離したら、あっという間に、馬の後足に抱きついてしまった。
・4歳の時、オルガが食事中に口に入れた食べ物を吐き出そうとしたので「どうしてそんなことをするの!」と言った。子猫を放り投げた時は「かわいそうな子猫、それはひどいことよ!そんなことをしたらもう子猫を飼わせません!」と言い聞かせた。オルガがかんしゃくを起こして大きな声を出した時には、(フラストレーションのためではないかと思い)直観的に彼女を「抱きしめ」、わけを言い聞かせたり、簡単な説明をしたりした。(ウェルチ療法と同じ)
・海の辺りを散歩していた時、オルガはいつの間にか途中の馬小屋にあったバケツをつかんで持っていた。
・4歳半の時、母親の弟から「お母さんのお掃除を手伝いなさい」と言われた時、彼を(一度だけ)まっすぐに見て、きっぱりと「仕事、いっぱい」と言って、そんな大仕事はとてもだめだと言わんばっかりに、拒絶した。
・1951年4月(オルガ4歳11か月)の時、妹メアリーが生まれた。母親は入院、その間、姉ヘレンとオルガは、子どもをかわいがってくれる親切な夫妻に預けられた。そこでは、ピアノを弾かせてもらえた(不協和音を出さなかった)こともあり、「急に花が咲いたように」進歩した。「妹のメアリーが生まれたのは、オルガにとっては天からの贈り物だったと思う。メアリーのおかげでオルガは遊ぶということを覚えたのだから」(母親の回顧)
・5歳の時、入学前の面接をクリニックで受けた。「おそらく脳損傷でしょう。教育不能であることは確実です。経済的自立はまったく望めないでしょう」と言われた。校長への報告書には「重症の自閉症」と書かれてあった。母親は、「脳損傷」などという診断は無視することに決心し「問題はむしろ情緒的なものだ」と思った。「私にとってはオルガはたいへん不思議な子どもでしたけれど、何年かのうちにはきっとよくなると思って、そう信じていました」。
・1951年9月(オルガ5歳4か月)、姉のヘレンがポリオに罹かり入院した。ヘレンは7週間「鉄の肺」(人工呼吸器)に入れられ、その後何年も病院で生活した。(車椅子で地元のグラマースクールに通い、オルガと一緒に過ごした。ヘレンとオルガは「実に姉妹らしい親密な関係」になった。しかし1965年に25歳(オルガ19歳の時)で亡くなった。)「オルガは家族がひどい窮地にあることを感じたようで、家族のために何か用事をするようになったのだと思う」(母親)
・1951年9月下旬、オルガ5歳5か月、メアリー6か月の時、オルガは百日咳に罹った。姉と同じ病院に入院したが、「ベッドからベッドへ跳びまわったり、病棟から病棟をさまよい歩いたり、天井近くの高いところへのぼってしまったりするので、これ以上は預かれない」と言われた。(33歳になったオルガの回顧:「あれは姉を捜そうとしていたのです)
・叔母がオルガを世話するために家に来ていた時、たまたま叔母が雨の中の洗濯物を取り込もうと外に出ている間にドアの鍵をかけて閉め出してしまった。ドアを開けてちょうだいと言われて「ぬれちゃった?おばちゃん}と言った。ほぼ同じ頃、階段の踊り場まで来て、下にいた叔母に向かって「おばちゃん、早く来ないといやですからね」と言った。
・5歳9か月、オルガは(まだ反復言語の段階であったが)公立普通幼稚園に入園した。そこで3年間にオルガは進歩し始めた。
・6歳の時、「おそらく、私たち両親が気づかないうちにこういう問題をつくりだしてしまったのだ」だから「もういちど赤ちゃん段階からからやり直さなければいけない」という結論に達した。
・8歳になった時、文字も読んでいたし、ことばのほうも急に伸びていた。(どのように指導されたのかはわからない)
・1954年9月(オルガ8歳5か月)、「学校」へ移った。しかし1学期を過ごしたあと、家族は転居し、オルガは新しい学校に転校した。ここでは、他の子どもから取り巻かれ、はやしたてられたり蹴られたりした。オルガはやり返したり、口答えしたりすることを知らなかった。その学校は一年と続かなかった・
・1955年1月(オルガ8歳9か月)から1964年10月(オルガ18歳6か月)まで、彼女は六つの異なる学校へ通った。いくつかの学校では不幸な経験をしたし、生活全般にわたるストレスで家族全体が苦しんできたが、彼女を「わかってくれた」学校があったこと、一貫して両親(主として母親)が、熱心かつ信念をもって彼女をケアしたことによって、彼女は成長を遂げ、ゆっくりではあるが完全に回復した。
・1956年、オルガが10歳の時、ハリエットという女の子と初めて安定した友だち関係になった。ハリエットもオルガに似て「孤独」な子だった。ハリエットの家に温かく迎えられ、四人の子どもたちと一緒に遊んだが、まだおかしな行動があったので、他の子どもから「おバカさん」などと呼ばれ、ひどくいじめられることもあった。
・中学入学試験が不合格になり「がっかり」「恥ずかしい思いも」したが、地域の私立学校に通った。そこは、とても楽しく、かなり気楽な雰囲気の学校だった。オルガは成長し、みごとな進歩を示した。賞をもらうようにもなった。
・次の年、オルガはほとんど進歩しなかった(先生をからかったりするやっかい者だった)が、オードレーというもう一人の親友ができた。互いの家に泊まりにいくほどの関係になった。
・この頃から、オルガの自閉的行動はすべてどんどん消えていった。
・13歳の時、オルガは地元のコーラスクラブの会員になった。音楽に対する興味、歌うことに対する興味がふくらみ、オペラ歌手になりたいという野心をもった。
・私立学校を終え、以後2年間は、別の学校に通った。音楽に加えて水泳も教えてくれたが、友だちは全然できなかった。(寄宿舎仲間と通学生の違い)
・18歳の時、王立音楽専門学校に(オーデションと入学試験を受けて)合格した。ロンドンで自活生活が始まり、3年間を「音楽浸り」で楽しく過ごした。時々は、ボーイフレンドとデートもした。
・1968年12月(オルガ22歳)、王立音楽専門学校で歌唱(教師)資格がとれた。           ・その間、精肉会社のアルバイト 店の販売助手の仕事、司書補などで「どんどんふくれる知識欲を満たし」た。
・1978年(オルガ32歳)には、上級司書補に昇進した。油絵も描き展覧会に出品した。
・1981年現在(オルガ35歳)、すっかりロンドンに根をおろし、両親ともよく連絡を取り、よい関係を保っている。フルタイムの歌手になることは無理だとわかって、図書館の仕事のほうで昇進しようと努力している。カルロスオペラグループにも出演し、マクベス夫人の演技では「すばらしい」という評価ももらったりしている。女の友だちも何人かはいるようだが、配偶者としてのいい人はみつかっていない。


【著者注記】
・彼女が「重症の自閉症児」であったことは、まったく疑いの余地はない(L・ウィング博士によって確認されている)。また、彼女が完全に回復したことも、疑いの余地はない。
彼女は最初は健康で正常な赤ちゃんであったが、疱瘡になった時から始まって、「自閉症の発生要因」として挙げられる各種さまざまな環境条件や出来事に直撃された。「発達遅れ」が長年続いていたにもかかわらず、少なくともひとつは、明らかに「すぐれた能力の片鱗」をもっていた。
・彼女の回復についての貢献者は、疑いもなく、母親である。母親は「気づかないうちに親がオルガの障害をひき起こしてしまったのだから、親の努力で回復させてやらなければならない」と決心して、早期からウェルチ式「抱きしめ法」を(ウェルチ以前に)用い、子どもを普通に、しかし非常に幼い子のように扱いこと、赤ちゃん段階から始めること、遊びのような雰囲気の中で励ますこと、必要なときにはしつけること、子どもの前で障害について話をしないこと等々、治療の要点を、自閉症に関する専門的な知識とは無縁のところで、《直観的》にやっていた。
・母親は1976年、自閉症児協会のヨーク会議で体験談を話したが、敵意と誤解に満ちたやり方で拒絶されてしまった。悲しむべきことである。


《感想》
 この事例の、最重要ポイントは〈5歳の時、入学前の面接をクリニックで受けた。「おそらく脳損傷でしょう。教育不能であることは確実です。経済的自立はまったく望めないでしょう」と言われた。校長への報告書には「重症の自閉症」と書かれてあった。母親は、「脳損傷」などという診断は無視することに決心し「問題はむしろ情緒的なものだ」と思った。「私にとってはオルガはたいへん不思議な子どもでしたけれど、何年かのうちにはきっとよくなると思って、そう信じていました」〉という一節にある、と私は思う。つまり、①オルガは、「専門家」(クリニック医師)により「重症の自閉症」と診断された。②しかし、「しろうと」の母親は、その診断を「無視」し、「問題はむしろ情緒的なもの」だと考え、「何年かのうちにはきっとよくなる」と信じた。(楽観的な決意)そして事実、オルガは音楽教師の資格をとり、時にはオペラの舞台に立ち、また図書館司書として「(経済的に)自立」するまでに回復・成長した。もし、専門家の言うことを「無視」しなかったら、どのような結果になっていただろうか。著者いわく〈彼女が「重症の自閉症児」であったことは、まったく疑いの余地はない(L・ウィング博士によって確認されている)。また、彼女が完全に回復したことも、疑いの余地はない。〉まさに、「論より証拠」の典型的な事例であった。〈母親は1976年、自閉症児協会のヨーク会議で体験談を話したが、敵意と誤解に満ちたやり方で拒絶されてしまった〉由、むべなるかな、彼女の話を聞いたのは、おそらく「専門家」と「両親」たち、「自分たちには治せなかった」という悔恨と忸怩たる思いが、「敵意」や「誤解」に転じて「渦巻いた」としてもおかしくない。すべてが、非合理的思考(感情論)の「なせる業」であることを肝銘すべきではないだろうか。(2013.12.10)

「自閉症 治癒への道」解読・《22》第10章 事例(1)【はじめに】【六人の自己流治療例】(1)ポーラ

《第10章 事例》
◎要約
【はじめに】
・この章では、当面どうしたらよいのか、どのようなやり方が最善かについて、詳細に示そうと思う。どのような状況や因子が子どもを自閉症にするか、それがケースによってどのように違うか、どうすればその障害を回復させることができるか、について具体的に述べる。
・第一部は、これまで出版されたことのない「自己流ママ」の治療事例(要約)、第二部は、6冊の(市販されていながら「専門家たち」からとりあげられなかった)本の抄録、第三部(付録Ⅰ)は、(二つ以上の専門誌から掲載を拒否された)ウェルチ博士の論文、第四部(付録Ⅱ)は、孤立して研究を進め、独自の理論を発展させてきた精神科医・M・ザッペラ博士の論文である。両博士は、自分のクリニックの中で安楽椅子的な仕事をしている「専門家たち」と違って、《実践野外研究》をしている点が共通している。
・二人の精神科医だけが新しい考え方の代表者というわけではない。このほかにも数人の実践者がいる。二人は、新しい事実の「前衛部隊」にすぎない。その事実が自閉症のつゆ可能性を示すものであることは、子ども両親にとって重要な意義がある。


【六人の自己流治療例】
《ポーラ》(1961年8月6日生まれ)
・最初から「乳を飲む力が弱い子」であった。飲む量は少なく、たえず下痢気味で、体重が減った。
・生後6週目に3週間、単独入院した。(細菌感染の疑い、経過観察、ペニシリン療法)
母が見舞っても、他の人に対しても「笑わなかった」。一方、「ひとりでいる時」「動いているもの(ボールなど)を見て」笑うことがあった。
・ビスケットを差し出されても「どうするものかまったくわかっていない」様子を見て、年齢相応の発達をしていないことに両親は気づいた。顔の表情が「うつろ、空虚」であることも気になりだした。
・退院後も、様子に変化はなかった。彼女は「満ち足りた」様子で、正常な時期に「喃語」を言うようになったが、15か月頃、それが消えて行った。
・18か月頃、両親は「耳の聞こえ」を疑ったが、非社会的な音(金属の灰皿が落ちる音など)には反応した。
・白い椅子の斑点、電灯のスイッチなどには興味を示した。
・20か月の頃、ボールで何時間も遊んだり、椅子を押して歩くことを喜んだ。母親は「なんとかしてつながりをもとうと心がけて何時間も一緒に遊んだ。また、自動車が通り過ぎる時の音に夢中になって喜んだ。ある日、名前を呼ぶと、隣の部屋から這ってきた。
・海岸のキャンプ場に連れていったが、手押し椅子にしがみついて離れようとしなかった。両親は何度もくり返し(好きな)ボール遊びに誘い出そうとして、最後には椅子から離れさせることに成功した。この間にポーラは母親への愛着を示し始めた。しかし、依然として、ナイフやスプーン、皿で何かをたえまなく叩くという「常同行動」を示したり、母親の手をとって「なんでも欲しいもの」の方へ押しやったりすることがあった。
・2歳半の時、聴覚障害を疑って耳鼻科を受診した。後で目覚まし時計が鳴っているのに、何の反応も示さなかった。
・強迫的な感じで、毎日、椅子を押して歩き回ったり、暖房用のラジエターを叩いたり、ナイフやフォークで物をコンコン叩いたり、長い間床に寝そべったりして、「人との接触」はまったくもたなかった。
・1964年1月(2歳5か月)、ポーラは呼吸器系の障害をともなう重症の風疹にかかったが、家ですごした。(入院はしなかった)1月13日に、母親が録音機を使って遊んでやると、ポーラは「有頂天」になった。母親は連日、録音機で遊んでいる間に、ポーラとの「本物のつながり」(より強い絆)ができてきた。ポーラは、病気が治った後も、公園や森に散歩の時など、ひどく怖がり「不安」を示していた。
・1964年の復活祭(2歳8か月)の時、悪性の肺炎を起こした。非常に不安がり、ひとりで立つことも歩くこともしなくなってしまったが、病気が治ると、両親は再び子どもの両側から手をつないで、日課の散歩に連れ出すことにした。
・音楽に興味をもっていることははっきりしていたので、おもちゃのピアノを買ってやったところ、たちどころになじみのメロディーをひとりで弾いた。ピアノを移動させれば、ポーラを部屋から部屋へと誘い出すことが楽にできた。両親は子どもの状態が全体にわたってよい方向に向かっていることに気づき始めた。ポーラはクラシック音楽(バッハ)が特別に好きで、木琴を聴いたり叩いたり、録音機も好きになった。ことばの理解も示し始めた。公園のあひるを見つめて「アイウーアイウ」と言ったりするようにもなった。
・3歳の頃、動物の絵のジグゾーパズルを与えたが、3歳の夏には、それでよく遊んだ。
・海岸に再度連れて行ったが、海岸の水たまりの中を、用心深くパシャパシャ歩いたりした。
・帰宅してから、スピーチセラピストの所へ定期的な指導を受けに通ったが、これは効果がなかった。指導にはまったく反応しなかった。
・庭でブランコに乗って遊ぶようになった。排泄のしつけもだいたいできていた。
・1964年のクリスマス(3歳4か月)、肺炎にかかり、ポーラの行動は「退行」した。
「私どもはもう必死でした。家族全員が苦しみました。精神科医にかかろうと思いました」
という中で、新しい小さなピアノを与えると、次第に元気になり、ひきこもりも少なくなってきた。(精神科のことは忘れることにした)
・こんどはリトミックのクラスに連れていくと、たちまちピアノに夢中になり、母親のことなど忘れてしまって、家に帰ろうとせず、ひきずって帰ってからも泣きやまず、モーツアルトのレコードをかけるとやっと泣きやむというありさまだった。いつも自分の楽器類を、自分の周りに半円状に並べているとひどく御機嫌だった。
・この頃からポーラはめざましい進歩を示し始めた。(食事、排泄が自立した)ことばを話し始めた。(始語は「ピアノ」)
・1965年の春と夏(3歳8か月・4歳)にはめざましい進歩がみられた。(本物のピアノで母親と一緒に正しいメロディーを弾いた。バッハの曲を聞くとブランコに行ったり、ブランコの絵を描いたり、手でゆれる動作をしたりした。バイオリンのレコードを聞きたがり、母親に弓を引くような動作をせがんだ。ことばの方もとんとん拍子に進歩し、リトミックの発表会に出席時、風船を「ちょうだい」と言ったり、子どもたちが舞台に並ぶと「汽車」と叫んだり、指揮者を見ると「拍子をとる人」、トライアングルの音が鳴ると「木琴」と言ったりした。
・1965年5月17日(3歳9か月)には、はじめてはっきりした意味のある応答をした。ポーラが叔父と叔母に近寄ってブランコを描いてくれとせがんでいる時に、母親が「自分で描いたら」というと「だめ、かけないの」と答えた。ピアノを弾きたくない時は「ピアノがねむいって」と言った。
・ポーラは依然として新しい部屋を通り抜けることがきらいで部屋の入口のところに横になって訴えるようにないていることがあった。
・母親は、毎日、公園のあひるの所に連れて行くと、毎日「短いお話」をさせられた。ある時、母親のほうが気持ちが沈んで歌が歌えなかった時など、ポーラが代わりにその節を歌い「さあ、もうすぐおうちよ」と言った。
・1965年の9月(4歳1か月)、姉が通っている幼稚園に入園した。ことば(文章)の指示に従うことはむずかしかったが、他の子がやっているのを見ればすぐにできた。男の子と友だちになり、よくその子のとなりで遊んでいた。
・(お向かいに住む)歯医者のところに、(「予行演習」を何度かくり返した後)「ひとりで」行けるようになった。
・この年の「話し方」は、依然として短い「電文体」であったが、理解力および思考については向上を示す多くの兆候がみられた。
・小学校入学のため、姉が幼稚園を去った時には、ポーラはひどく混乱してしまった。
・6歳に達したとき、「知能」のテストが行われ「2歳相当の知能」と判定された。しかし、「彼女が何か特別のもの」をもっていることに気づいた先生方は、普通の小学校に入れることを決めた。
・まもなく読みはよくできるようになったが、算数はむずかしかった。
・毎週バレエのけいこに通い始め、小さな役を演じた。
・近所の人や訪問客に向かって話をするようになり「おうちはどこ?」と聞いていた。
・学校であったこと、いやだったことの場面を、人形を使って再現した。
・親との接触も着実に改善されてきたが、依然として、ひとりで寂しがっていることもあった。年上のきょうだいのふたりともいくらか接触ができた。
・小学校で通常の6年間が終わった後、さらに1年留年させてもらうことになった。学校では、よくからかわれた。しかし、よく勇敢に、耐え抜いたので、先生は「将来はきっと明るいだろう」と予測した。
・中学校(古典と人文を重視するグラマースクール)では着実な進歩を示した。
・何となく書きことばふうの話し方が目立ってきた。(両親の考えでは、小さいときに周りの人が話していたことばをほとんどとり込まなかった結果だと思う、ということであった)
・1979年(17歳)、卒業試験の準備中であったが、彼女はまったく普通の人であり、ことばの使い方も立派で、魅力的な人であり、人に対してもおちついた態度でふるまっていた。
・1980年9月(19歳)、大学で歴史を専攻していた。彼女はまったく冷静で、礼儀正しく親しみ深く人をもてなした。自分の過去についても、覚えていることをためらわずに話してくれた。彼女がくり返し述べていた願望は「普通の人々の中で暮らしたい」と言うことであった。「よく成熟した、普通の、興味深い人柄」であった。


*著者注記:これは、明らかな自閉症ではないが、明らかに「生まれた時から静かだった」子どもの一例である。開業医の父親によれば、この「自己流治療法」の大部分は彼の妻のやったことであり、彼女はポーラとのつながりをつけることを決して諦めず、彼女の奇妙な行動にさえ一緒につきあったり、音楽好きをうまく生かし、ポーラが自発的にするように誘ったりした。両親はつねに「彼女のあるがまま」を受け入れ、耐え抜き、子どもの知的情緒的発達を促す道を求め続けてきた。典型的な自己流ママの例である。


《感想》
 この事例の最重要ポイントは、著者が「注記」しているように、両親(とりわけ母親)の「つながりをつけることを決して諦め」ない(育児)態度(持久力)であることはいうまでもないが、さらに加えて、2歳5か月、2歳8か月、3歳5か月に「大病を患った」ことが、自閉的状態からの回復に大きく影響している、と私は思う。ポーラは、生後6週目に3週間「単独入院」した。その結果が、自閉的な逸脱(の進行)に影響していることは間違いないだろう。しかし、2歳5か月、重症の風疹にかかったが「家ですごした」のである。その時の、母親の看病・介護が、母子のやりとりを促進し、「本物のつながり」をつくり始めた。次いで、2歳8か月の「悪性の」はしかと肺炎で、ポーラの不安は高まり、よりいっそう母親を求める気持ちが強まったに違いない。究極は、3歳5か月の「肺炎」、彼女はおそらくまた0歳台まで「退行」したのではないだろうか。両親は「必死でした。家族全員が苦しみました。精神科にかかろうかとも思いました」というところまで落ち込んだが、その必死な看病・介護こそが、ポーラを自閉的逸脱から救い出す契機になったのではないだろうか。大好きなピアノを与えられて元気になった時、体力の回復と同時に、情緒面でもいちだんと回復し、母子の絆が再構築されるという「上向きのらせん」が始まったのではないだろうか。まさに、「災い転じて福と為す」事例ではなかったか。(2013.12.9)

「自閉症 治癒への道」解読・《21》第9章 指導法の実際・・・両親と保育者のために(5)

《第9章 指導法の実際・・・両親と保育者のために》
◎要約
【遊び心の重要性】
《過度にまじめな環境はむしろ病的である》
・学校でも家庭でも、まじめすぎる緊張の高い雰囲気は避ける必要がある。
・現代の社会全体が能率主義と競争主義の方向へ動いており、その中で人々に共通している意識は「まじめさ」であり、もっと多くのことをもっと能率よく処理しようということで頭がいっぱいである。子どもにも大人にも心なごむ遊びの心が失われている。遊びは、みんなの気持ちをリラックスさせてくれるばかりか、計り知れないほどの教育的意義をもつ。さまざまな技能、感受性・協力性・責任感などが養われる。
・現代社会が「原始社会」よりも優れているという考えは不遜である。陽気さに欠けていること、まじめすぎること、能率志向の傾向の方が「例外的」であり「病的」である。
《自閉症児には遊び的雰囲気がより必要》
・遊びは、自閉症児が経験しそびれてきた最も重要なことのひとつである。
・子ども側には対人的回避傾向があり、親の方には気持ちが通じず気が沈んでいるので、遊び的相互作用をスタートさせるのが極めてむずかしい。
・そういう状況を変えていくのには、子どもの恐れを減らすための各種の方法(第6章)をまず適用してみるのがよい。
《まず親が、遊びの心を養う練習を》
・大人の方が遊びをリードしなければならない。
・まじめすぎの両親の多くは、生まれつき遊び心が乏しいのではなく、陽気さの発達が不十分だったか、抑えられたためだと思う・
・もし、子どもからの遊び的歩み寄りが見られたら「すかさずそれをキャッチ」して遊び的気分に入るようにする。なんらかの接触が保てる場合はいつでもそうするとよい。自閉症児の場合、乳幼児が喜ぶようなやりとり遊びによく反応する。(そっとつまむ、リズミカルに手を叩く、くすぐりっこなど)
《即興のゲームによる「会話」の例》
・積み木遊びをしていた6歳の男児が、「自分の仕事」(積み木遊び)が一段落するたびに、その作品を眺め満足そうにしていたが、最後には静かに、リズミカルに手を叩いた。その様子を観察していた治療者(エリザベス・ティンバーゲン博士)は、〈すぐに、それに続いて私が代わって同じリズムで同じように拍手をしてみました。その子は私の方を振り向き、一瞬さっと私を見て、それからまた前に向き直って、私の拍手に応えて、また手を叩き始めました。そういう「対話」がしばらく続きました。それから私が拍手のしかたを少し変えてみたところ、嬉しいことにこどものほうもそっくりそれをまねてくれました。これもしばらく続き、こんどは「子どものほうが」リズムを新しいものに変えてきましたので、私もその「指示」に従いました。それから子どもはそういう「会話」を続けながら、部屋の中をうろうろ歩き始め、しばらくあてもなくさまよったあと、急に気が変わったように「偶然」に私の近くにきて、腹ばいになりました。子どもの足が私に一番近い位置になっており、ちょうど私の手の届くところにきていました。そこで、私が同じリズムで子どもの足をパタパタ叩いてみますと、それが子どもを喜ばせたようでした。子どもは、それに「答えて」手を叩きながら少し私の方ににじり寄ってきました。子どもがだんだん近くに寄ってくるので、手を伸ばすと子どもの脚や尻に私の手が届き、おしまいには背中をくすぐることもできました。子どもは喜んで身をくねらせながら、さらに近くにすり寄ってきました〉。
《子どもは、おどけの上手な大人たちが好き》
・おどけの上手なある母親が、離乳食をたべさせようとしたとき、スプーンの食べ物を「中空」にとめ、おどけた顔をして子どもの顔をのぞく、というゲームをしかけた。赤ちゃんはそれに反応して笑った。それから、子どもがじれてしまう前に普通通り食べさせた。次に、母親が子どもの口にスプーンを近づけると、今度は子どもの方が突然口を閉じ、おもしろがって「どうだとばかり」の笑顔をうかべて親を驚かせ、それから食べたという。
・ごく幼い赤ちゃんでもそういうことが大好きで、自分からも遊びをつくりだす。
・「一緒に笑う」ことは、人間という種にとって最も効果的で、満足のいく対人的な絆づくり機構である。
・子どもは、両親その他の相手がたくさんの「おどけ方」を心得ていて、それをくりかえして遊んでほしいと思っている。
・明るい家庭では、家族のすべてがそれぞれ独特の役割をもって冗談に加わる。父親は母親とは違ったおどけ方をする。子どもたちは子ども独自の遊びとおどけの文化をもっている。高次の技能の多くは、そのような関係の中で発達する。
・正常児にとって「教育的」価値をもつことは、情緒障害児にとっては「治療的」価値をもつ。
《家庭内の「実地見習い」の重要性》
・男児は年長者の「手仕事」を観察する。女児は、配膳・掃除・皿洗いなどの「お手伝い」をやりたがる。
・家庭の中にそのような「実地見習い」状況をつくり出すことは、大きな教育的価値をもつ。そのことが、観察学習や練習を促進し、対人的絆づくりや協力性を促進するからである。
《「進む」と「退く」のバランスをとりながら》
・子どもの行動を「持続的に」観察(モニター)し、子どもが「ひきこもりたい」というそぶりをみせたら、(こちらも)「一歩後退する」ことが、遊び的相互反応の《根本原則》である。(これは「綱渡り的進行」である)
・うまくいったやりとりは、くり返し行う覚悟が必要である。親があきあきしてしまうことがあるが、子どもは「儀式的くりかえし」による安心感を好む。新しいやりとりを加えたり、古いやりとりに変化を与える、ことで新鮮さが増す。時には、子どもの方から、追加や修正を要求することもある。
《自閉症児の治療には持久力が必要である》
・よほど早い時期に発見された場合にしか、急速な変化は期待できない。
・「持久力をもつ」ということは、ひとたび治療の「過程」を始めたら最後、決して「かってにやめてはいけない」ということである。途中でやめることは著しい害を与えることもある。


【結論】
・これまで述べてきたことの多くは、自閉症児の新しい治療法をあみ出そうとして多くの仲間たちが模索している段階の試みであり、試験的なものである。
・「専門家たち」は自閉症について、多くのことを権威者のように書くことによって、しろうとの人々に対して、自分たちは実際以上に知識と理解をもっているかの印象をあたえてきたことは、否めない事実である。
・(しろうとの)両親や介護者や教師にも、自閉症の理解・治療法の探求に参加していただきたい。
・自閉症および関連の障害は、あまりにもさまざまで複雑である。新しい治療法を開発するには、専門家だけに完全に任せてしまうべきではなく、すべての関係者の協力が必要である。


《感想》
 以上で著者・ティンバーゲン夫妻の「論述」は終了する。しかし、この「自閉症治療学」は、人口膾炙されていない。なぜだろうか。私の独断・偏見によれば、まず第一に、著者の一人であるニコ・ティンバーゲン博士は「動物行動学者」であって、自閉症の「専門家」ではない、ということであろう。「専門家」に比べて、著者の知識・経験は乏しく、信じるに価しないといった「権威主義」が児童精神医学界にはびこっているためではないだろうか。「初手から相手にしない」(門前払い)といった風潮はないか。また第二に、その理論自体が、「環境要因による情緒障害」という考えに立っているため、「先天的な脳の器質的な障害」という立場と真っ向から対立する。今や、全世界の「専門家」は後者であろうが、その論拠は明確に示されていない。その「要因論」は、まさに「諸説紛々」といったありさまで、いずれも「推論」の域を出ていない。(一方、「環境要因による情緒障害」説もまた、推論に近いが、少なくない《改善例》がその論拠になっている、と私は思う)第三に、その「環境要因」の中には、両親の「育児法」が含まれており、それが現代社会の「男女同権主義」(ジェンダー・フリー)と真っ向から対立する。事実、両親や本人までが「先天的な脳の器質的障害」と断定されることによって、「不当な差別」から解放されたと感じている。したがって、「自閉症は親の育て方が原因ではない」ということを、まずア・プリオリに断定することこそが、「専門家」としての立場を守ることになるのではないだろうか。しかし、本書を読めば一目瞭然のことだが、著者・ティンバーゲン夫妻は、「自閉症児(者)」を差別していない。その両親を「冷蔵庫のような親」などと言って非難してもいない。むしろ、(傷ついた)「両親のために」指導の実際を説き、一日も早く「回復」できるように励ましているのだから。中でも、エリザベス・ティンバーゲン博士の《即興のゲームによる「会話」の例》(の一節)は、(自閉症児と接する)臨床家の誰もが見習わなければならない(稀有な)「お手本」である、と私は思った。また、著者・ティンバーゲン夫妻は、自説が、つねに「完璧」であり「正しい」とは《断定》していない。すべてが「仮説」(推論)であり「検証」が必要であることを強調されている。だとすれば、その説に(「専門家たち」は)誠実に耳を傾け、「反証」を提示することが(科学者の)「倫理」というものではなかろうか。いずれにせよ、感情論が入り混じった非合理的な論議は「不毛」であり、肝心の「自閉症児」を救うこととは無縁であることは明らかである。次章からは、自閉症が「環境要因による情緒障害」であることの論拠となる「事例」が紹介されている。期待をもって読み進めたい。(2013.12.8)