梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症 治癒への道」解読・《29》第10章 事例(8)【出版されている六つの論文】(2)ヴェクスラー「サンディーの物語」

◎要約
【出版されている六つの論文】
《2.ヴェクスラー「サンディの物語」》
・サンディは2歳前になって歩きはじめたが、歩き方はぎこちなかった。
・2歳過ぎに妹が生まれると、歩行を止めてしまい、いくつかの面で退行を示した。(単語や音声を出さなくなる。人前で元気がなくなり完全にひきこもる。長い間、からだをゆする。まったく視線を合わせなくなる。不安が強くなると、自分の指をのどに突っ込んで吐く)
・母親は、非常に不安定でで、今ふさぎこんでいるかと思えばすぐにまた有頂天になった。(サンディの生まれた日に、母親の弟が自殺した)
・母親のうつ状態が続いた2週間、サンディは乳児院で過ごした。自宅にもどっても、両親の声の届かない最上階に寝かされた。授乳も世話も不規則で、母親に気づかれず泣いていることが多かった。
・8か月の頃、母親のうつ状態が激しくなり、精神科の世話になった。
・1歳の頃、母親はサンディがもっと自立することを願いながら、一方では施設でまともな世話をしてもらいたいとも思っていた。
・サンディが1歳10か月の時、母親は妊娠していることに気づいた。(もう子どもは欲しくなかったので中絶しようとした。母親のストレスが高まり、サンディは忘れ去られていた)
・妹が3か月、サンディが2歳6か月の時、母親はサンディを(知的障害児の)「施設」
に入れるべきだと決心した。
・サンディの父親は十代から、子どものいない夫婦に(養子として)育てられたが、その義父母(サンディの祖父母)の所に行き、引きとってもらえないかと頼んだ。
・義父母は深い愛情と理解をもって、サンディを養子に迎えた。
・サンディが到着した時、依然としてひきこもった状態だったが、抱きあげられると溲瓶に排尿した。(6か月ぶりのことであった)
・小児科医の診察を受けたところ、「身体的にはとても健康だ、落ち着かせること、愛情と忍耐が唯一の薬である。あとで精神障害の専門家に診せるように」勧められた。
・この「祖父母」にあたる愛情深い夫婦のところへ移ったことが、サンディが正常に戻る長旅の出発点になった。
・6週間後には、地面を叩いて人を呼び寄せる、視線を合わせ始める、人の行動をまねする、歩きはじめる、声を出す、などのことができるようになった。
・3歳の頃、祖母と4日間離れ離れになったが、祖母がもどると、床をたたき「座って」と言った。祖父母が蓄音機を与えると、非常に器用に扱うようになった。食事の作法も上手になった。
・3歳3か月、専門家に診てもらったところ、精神的に正常ともみなさず、心理療法を受けるには幼すぎる、祖父母がいることがこの子にとって唯一の救いであり、せかせると退行する、過剰刺激もやらないように、と警告された。
・サンディは安定した進歩をし始め、3歳代の心理検査では「痴愚クラス」、4歳では「境界線域」と考えられ、6歳半まで幼稚園で過ごした。(4歳9か月の時、心理療法が始められたが、突然の退行を示した。治療士の部屋にあったゴム製のキリンを見て父親を思い出したからである。
・7歳半の時、普通小学校に入学したが、緊張に耐えられず、障害児のための小規模学校に移された。それがよかった。その頃の心理検査では「平均的知能」を示した。
・9歳半の時、「問題をもつ子ども」の夏季キャンプに参加、以後それを主催した寄宿舎制の学校で2年半過ごした。情緒面では着実な改善を示したが、学業面ではあまり進歩しなかった。ほぼこの時期に、父親(母親とは離婚し再婚していた)との接触が再開した。
関係は良好で、とくに義母との関係がよかった。
・その後、サンディは州立の学校に受け入れられ、2年下のクラスに入った。学業はビリであったが、サッカー、フットボール、水泳が得意で、彼の地位は上がった。
・ゆっくりではあるが正常に近づき、普通高校に入り、国立大学に入学した。軽度の言語障害をもっていたが、討論や演説ではそれが消えてしまっていた。
・サンディの話は、第一には母親による、次いで(困りはてた)父親による「拒否」と続いて、愛情豊かな祖父母、および父親の二度目の妻による「受容」の物語である。
・サンディが大学を卒業した時、この養母(二度目の妻)は次のように述べている。「私たちが特別よいことをしたと思ったことは一度もありません。サンディが自分の中に回復力をもっていたのです。ジョー父さん(彼女の夫)とサンディは最も深い絆で結ばれています。私たちはサンディを家に迎え入れました。私たちには家庭があり、彼にはなかったのです。私たちはみんなに共通の喜びとしてサンディを愛するようになりました。ジョー父さんは優しさと、次には成功のために心を配りました。父さんは謙遜を尊びました。・・・名誉よりも・・・。サンディにはちょっと不完全なところもありましたし不器用なところもありましたが、それでも立派に進級しました。ハンサムで愛らしく、年の割に賢い子どもです」。これが正に、素晴らしい「自己流」ママの態度なのである。


《感想》
 サンディが生まれた日、母親の弟が自殺した。そのことが、すべての始まりであった。母親はそのショックから立ち直れず、いわゆる「ネグレクト」(養育放棄)状態になってしまった。その結果、サンディの成長発達は「全体的に」遅れ、併せて2歳過ぎに妹が誕生したことにより「退行」と「ひきこもり」があらわれ、「自閉的な症状」のすべて示されるようになる。まさに「自閉症」が「環境要因」によってひき起こされる典型的な事例であろう。困りはてた父親は、やむなく自分の養父母にサンディを引き取ってもらったが、その「愛情深い祖父母」によってサンディの「進歩」(回復)が始まる。さまざまな紆余曲折はあったが、父親との再会、義母(自己流ママ)との出会いによって、「ハンサムで愛らしく、年の割には賢い子ども」に成長した。
 サンディもまた「自閉症」を治癒した少年の一人であることは間違いない、と私は思う。(2013.12.19)

「自閉症 治癒への道」解読・《28》第10章 事例(7)【出版されている六つの論文】(1)カウフマン

◎要約
【出版されている六つの論文】
《1.カウフマン「愛することは共に幸せになること》(長男ローンの物語)
・ローンは長男(7歳と3歳の姉がいた)で出産は正常だったが、最初は「鉛色」だった。・ほとんどたえまなく泣いて、働きかけにも反応を示さなかった。
・4週目に中耳感染症にかかり、集中管理棟に入院、抗生物質の投与を受けた。両耳の鼓膜に穴があいた。
・その後の4か月間、ひきこもりが続いた。
・1歳5か月の時に、自閉症のすべての兆候を示していた。(ものをくるくる回す、同じ玩具・同じ場所でひとりで遊ぶ、指さしをしない、身振りを使わない、声を出さない、ある種の物事にこだわるなど)自傷行為はなかった。
・両親は、専門家の意見が混沌として矛盾ばかりであることに気づき、ローンを自分の手で治そうと決心した。(その方法は、デラカートの「刺激法」?)
・両親は治療の計画を決めるのに先立って、2週間、ローンの行動を観察した。
・母親は、ローンがものを回している間(2時間も!)一緒につきあった。1日に8時間から9時間も、子どもの横に座り、食事をさせ、話しかけ、歌をうたい、周りの出来事を説明し、子どもの頬に息を吹きかけて注意をひいたりした。食物をのせたスプーンを自分の目もとの方向から近づけていくようにすると、ローンはまもなく母親の目をたびたび見るようになった。(両親の愛情に満ちた献身的なかかわりが感じられる)
・ローンの対人的な反応がよくなり始めたが、「束の間」「ごくたまに」であった。
・「刺激法」の治療をはじめて8週間後(1歳7か月頃)の状態について「有益なまとめ」や、その段階で守っていた「活動日課表」がのっている。(68~69ページ・74~75ページ)
・その4週間後、ローンは退行し、その活動を拒否した。その後、さらに何回もの「行きつもどりつ」があった。
・「刺激法」は、多少、要求過多と思われるので、ローンが反抗したとしても無理はない。・ローンは、ある種の繊細な能力をもっている。(しかし、両親はそのことを評価していない)
・ローンは4歳で完全に回復した。
・カウフマンの方法で最も重要な面は、最初の2週間、意図的な介入を控え、ただひたすらローンがやっていたことをじっくり正確に観察したことである。(動物学的方法)
・カウフマンは、その後も(1981年2月)「信ずることの奇蹟」という記事を書いており、そこではメキシコ人夫婦の息子に「同じ方法」を用いて、1年半後「目を見はるような進歩をとげた」と報告されている。
 以上は、共に「教育不能」という神話の崩壊を裏づける例である。


《感想》
 カウフマンが用いた方法がどのようなものであったか明らかではないが、デラカート博士の「感覚障害論」に拠ったとすれば、日本でもその理論に基づいて療育を行っている「NPO法人・しらゆり」のプログラムが参考になると思う。デラカート博士は、自閉症(の行動障害)を引きおこす原因を「感覚障害」と位置づけ、その治療法を開発した。すなわち、自閉症(の根源)は、異常な感覚過敏(ハイパー)または感覚鈍麻(ハイポ)もしくは感覚刺激の持続(ノイズ)であり、その行動特徴(常同行動など)は、感覚刺激を回避するか要求するかに大別される、したがって、その治療は「感覚障害」を正常閾値に戻すことが主眼とされる。その具体的なプログラムは以下の通りである。
《プログラムの概要》(「特定非営利活動法人・発達障害児療育センターしらゆり」のホームページより引用)
1.運動のプログラム
 1) 神経構成検査によって確認された充分機能していない脳機能の部位に働きかけるための運動を行う
 2) 脳に十分な酸素を供給するために心肺機能を高めるために運動を行う
 3) 運動を通して、達成感・満足感と協調性を学ぶ
2.感覚のプログラム
 1) 過敏な神経には、穏やかな刺激から順に強い刺激へと刺激を拒否せず受け止められるようにする
 2) 鈍い神経は、強い刺激から始め、弱い刺激でも反応できるようにする
 3) 混乱している刺激は、刺激がどこから来ているかを意識させて、刺激に正しく反応できるようにする
3.生活のプログラム
 睡眠・食事・生活習慣など基本的なものを身につける
4.概念形成のプログラム
 小学校就学までに家庭でごく自然に身につけている知識を意図的計画的に学ぶ
5.学習のプログラム
 年齢に応じて、必要な学習をする
6.社会性のプログラム
 社会生活スキルを身につける
7.コーチング
 児童に対して、人生の目的、生きる意味、当面の目標などをコーチングする
8.ペアレント・トレーニング
 保護者に対して、子どもに対しての効果的なほめ方、注意の仕方、話の聴き方などを身につけるトレーニングを支援する


 著者・ティンバーゲン夫妻は、このデラカート博士の「感覚障害論」について「必ずしも妥当性のない」解釈、と批判し、またその治療法についても「多少要求過多と思われる」と評しているが、「全く論外」と切り捨てていないところが、たいそう興味深かった。(2013.12.18)


「自閉症 治癒への道」解読・《27》第10章 事例(6)【六人の自己流治療例】(6)ジュディ

◎要約
【六人の自己流治療例】
《ジュディ》(両親から提供された情報)
・ジュディは1970年1月9日、予定日より5週間はやく出生、体重2000グラム。母親は,高血圧、妊娠中毒症のため1月4日から入院。絶対安静を指示された。「赤ちゃんは望みなし、母体は五分五分の危険がある」と医者は考えていた。ジュディは保育器に入れられたが呼吸困難になり酸素吸入を行った。
・5日目、母子対面。ジュディは鼻腔栄養を受けていた。
・11日目、母親は退院したが、ジュディは1か月間、病院に残された。その間、1日2回母親が訪れ、哺乳びんから授乳した。「ぼんやりしていて元気がない」印象だったが、「絞った母乳」を与えたところたちまち快活になった。粉ミルクも与えた。
・ジュディが退院後、母親は要求授乳にした。目が覚めると「おっぱいを要求して泣き声を出す」ようになった。
・5週目、はっきり微笑するようになった。
・6週目、頭をもち上げられるようになった。
・母親は、ジュディを腰にのせて家事をした。
・5か月の時、椅子につかまって「ひとり立ち」ができるようになった。
・早くから喃語を発し「パパ」ということばも言っていたが、手を使う能力の発達は遅かった。
・最初の夏(7~8か月)、母親は午後、乳母車に乗せて公園に連れて行った。ジュディは草の上を這って歩くことができた。乳母車で木の下を通ると、ジュディは「喜びの声」を出した。母親は花飾りを作ったり、絶えずジュディとおしゃべりをした。夕方には、仕事から帰る父親を迎えに行った。
・1歳の時、新居を買った。母親は再び妊娠した。
・1歳4か月の時、ジュディは「ひとり歩き」ができるようになった。食べることが好きで、母親が高血圧で入院中(週末に4回)には「食べ物を探して歩き回っていた」。
・妊娠期間の最後の3週間は、父方の祖母が泊まりがけで手伝いに来た。ジュディは、父親が帰ると駆け寄って膝によじ登り、就寝時間になっても降りなかったが、祖母はこれをひどくきらい「子どもを甘やかすことは身を滅ぼすことだ」と言い、さらに「昼間はジュディが興奮しすぎないように話しかけないようにした」という。
・ジュディは、しだいにおとなしくなり、陽気さは失われていった。祖母はめったにおむつをとりかえなかったので父親が朝、昼、晩にとりかえた。祖母は父親に「世話をやかせることもないし、おとなしいし、まったく問題がない」と言った。
・1歳8か月の時、妹アンが生まれた。(お産は軽かった)母親がジュディにアンを見せると、「よしよし ヨーシ、ヨーシ」と大声で言って、そっぽを向いてしまった。その後、ジュディは、アンの姿を見たり、母親の姿が見えなくなったりした時には、半狂乱になって叫び声をあげた。いろいろな「後もどり」が現れた。(食事のとり方、指しゃぶり、洋服しゃぶり)「神経性下痢」も始まった。耳の病気に罹り、食欲減退、拒食も現れた。
・ジュディは、アンを怖がって、母親に必死にしがみついた。(その結果、アン母親から十分に目をかけてもらえなくなった)
・以後、自分の寝室以外の部屋を怖がり、すべての赤ちゃん、見知らぬ人、病院に関するすべて、医師、あらゆる泣き声、大きな音(冷蔵庫、掃除機の振動音、トラックが通り過ぎる音、隣家のノックする音)、猫・犬に対して悲鳴をあげるようになった。両親の親友をもきらい始め、彼らを見ると「バイバイ」と言って家の中に駆け込み、ドアを閉めてしまった。
・一緒に散歩することもできなくなった。誰かが家に訪ねてくると「ねんねしなさい」と言いながら自分のベッドに入った。隅っこにうずくまって声を殺してすすり泣き、顔や体のあちこちに、自分でやったひっかき傷ができていた。かかりつけの医者から「アンとの楽しいつながりがもてるように」と助言されて心がけたが、うまくいかなかった。
・ジュディは、手をつないだまま乳母車のちょっとうしろを歩かせれば、少しは散歩ができるようになってきた。これまでの悲鳴が「かんしゃく」に変わってきたので、両親はジュディを「しつけなくてはいけない」と決心した。
《しつけの内容と方法》
⑴ジュディのいとこピーター(3歳男児)が泊まりに来た時、最初ジュディは終始ピーターを避けていたが、母親が「ピーターはお母さんと一緒じゃないので悲しいのよ、なぐさめてもらえないかしら」と言うと、ジュディは駆け寄り、手をとって「ピーターおいで、リスを見に行こう」と言った。この時以来、ふたりはいつも一緒で、どこへ行くのにも手をつないでいた。
⑵ジュディが2歳8か月になった時、両親はのるかそるかの気持ちで「スモールブリッジ幼稚園」に入れることを考えた。
⑶約束の規則を作った。①食べ物は残してもよいが、散らかしてはいけない。罰則a警告を与える、b厳しく警告する、c叩いて食事を終わりにする、②食事中、かんしゃくを起こしてはいけない。起こしたら部屋から連れ出した。③母親が電話をしている時は、かんしゃくを起こさない。度がすぎるときは、叩かれた。
・その後しばらくして、母親はジュディの長いかんしゃくの続いたあとで「どうしてそんなことをするの、そんなことをしても何にもならないじゃない」と尋ねた。ジュディは「わかんない」と言い、自分の開いた口を指さして「ジュディの口がわるい」と言った。
・かんしゃくは減ってきたが、飛んでいる飛行機をとってとせがみ、叩かれた。また、家族で公園にピクニックに行ったとき、原因不明のかんしゃくを起こした。ジュディは警告を受け、2階の部屋に閉じ込められた。ジュディは窓ガラスを割れるほど叩いたり、ドアを蹴ったりして暴れた。両親が「歯をくいしばって耐えている」と、やがて静かになり、「ママごめんなさい」と言った。母親はすぐに2階に行った。「それはそれはすばらしい和解でした」。
・就寝のきまりができるのにも時間がかかった。母親が30分ごとに「のぞいてみる」こと、ジュディのからだに「決まりどおり」の形で「ふさ」を巻きつけること(儀式的行事)、ベッドの由来のお話、子守歌など、両親はジュディに徹底的につきあった。
・3歳の誕生日後、ジュディは「スモールブリッジ幼稚園」に入った。両親は、入園前から、幼稚園に連れて行き様子を観察させたり、先生に会わせたりした。入園後は1週間、母親が付き添った。
・最初の6週間、ジュディは「水遊び」にこり、ズボンをぬらして先生から注意を受けたりしたが「どうしても接触をうけとめる」ことができなかった。「子どもがジュディに何かをあげようとして近寄ってくると、緊張し、固くなって壁に身を押しつけていた」。
・3歳半になった頃、先生が「ジュディの内気が心配」と言い出したが、両親が生育歴を説明すると「ことばの話しぶりなどに惑わされていました」と言った。ジュディは、乳児的行動と4歳児の行動との間を「行きつもどりつ」していた。
・幼稚園の定期健診の時、かんしゃくをおこしたが、後になって校医のいる部屋に行き「騒いでごめんなさい」と謝ることができた。以後、家族と「お医者さんごっこ」で遊んだりするようになった。依然として動物を怖がり、ゆれる木馬にも乗りたがらなかった(「お馬は背中にけがをしているから乗ると痛がるの」)が、母親が馬に包帯をしてあげて1週間待ってみたらと言ったところ、うまくいった。
・それから事態は急によくなり始めた。ジュディはますます音楽をよく聞くようになり、バルトークの弦楽四重奏などがわかるようになった。父親はバイオリンを教え始めた。
・4歳半になった頃、 扁桃腺手術、事前の説明を十分にしたところ「すべてはうまく運んだ」。以後、喘息の発作、中耳炎などの時でも「病院の中へ駆け込んでいった」。
・この段階で、母親がジュディに読みを教えたところ、ジュディはアンに本を読んで聞かせるようになった。それがふたりつながりを強める結果になった。
・5歳で小学校入学。何のトラブルも起こさなかった。
・冬の音楽祭ではバイオリン曲を弾いた。ひとりで祖母の家に泊まりに行くこともできた。両親とアンが迎えに行くと、ジュディは「アン!」と歓声をあげて抱きついた。以後、ふたりの姉妹は片時も離れられない関係で、さまざまな「つもり遊び」を楽しんでいた。
・家族は新しい家に転居すると、逆もどりすることがあった。火事を怖れ、煙突の煙やパイプの火に悲鳴をあげた。また死をひどく怖がっていた。新しい学校から逃げ出したり、トイレに隠れたり、もとの学校に戻りたいといって泣いたり、家出の準備をしたりすることもあった。
・一方では、著しい進歩を示した。父親の屋根工事の手伝い、家族と二十マイル(約32㎞)のハイキングもした。バイオリンも上達した。
・学校では「ほぼちえ遅れ」と考える職員もいたし「年齢以上に賢い」とみている職員もいた。(「ジュディがひきこもっているか、気持ちが開いているかによって違ってしまうんです」)
・最初は友だちができなかった。ジュディが「だれも私を好きになってくれないの」と訴えるので、母親は「ほかの友だちがいなくて淋しがっている子どもと仲よしになってあげたら」と勧めた。ジュディはさっそくそれを実行したところ、まもなく周りには「さまざまのおちこぼれた幼児の群ができた」。
・6歳の頃、ジュディはたいへんアン
が好きで、夢にうなされたりするとアンのベッドに一緒に潜り込んでいた。
・11歳、ジュディはあらゆる面からみて完全に正常である。文学・音楽に関する能力は標準以上」の才能がある。学校では、たいへんうまくやっており、他の人との関係、とくに幼い子どもたちとの関係では、仲間としても客としてもすばらしい人であり、非常に優しい利他主義者であった。
・1981年8月(ジュデイ11歳7か月)、著者のニコ・ティンバーゲン博士が「自然保護地区」を案内して「私とまむしを見に行きたい人は?」と尋ねた。アンは「私、イヤ」と言ったが、ジュディは、毒蛇は怖いと言いながらも、自分の怖れを克服して、はっきりと「私、行く」と言った。そう言って出かけ、自然のまむしを一匹見つけた。ジュディはたいへんな興味を示し、その動物の繊細な美しさに感嘆し「行く決心をしてよかった」と(少なからず得意がって)喜んでいた。


【著者注記】
・早期の環境における一連の不運な事態によって傷つけられた子どもの一例である。
・ジュディの回復に、両親は「全力を尽くした」。
・「情緒的レベル」に訴え、子どもが強く求めていた安全の保障に努め(成功し)、一方、しつけの基本事項には厳しく、時には非情であった。
・すばらしい点は、(ジョージとも共通しているが)「もっと不幸せな子ども」に対する援助をジュディに勧めたことである。そのことがジュディ自身に驚くべき良好な効果を生んだ。


《感想》
 著者がいう「早期の環境における一連の不運な事態」の中で、致命傷となったのは、父方の祖母に出会ったことであろう。彼女は「子どもを甘やかすことは身を滅ぼすことだ」という信念のもとに「昼間はジュディが興奮しないように《話しかけない》ようにした」という。その結果、出生時の重篤な困難を乗りこえて、順調な回復・成長を続けていたジュディは、しだいに「おとなしくなり」「陽気さは失われていった」。しかも、その状態を見て、祖母は「世話をやかせることもないし、おとなしいし、まったく問題ない」と肯定的に「評価」している。子どもの実態を観察しながら、その可能性を育てるのではなく、自分の都合のよいように子どもをコントロールすることが育児である、と祖母は考えていたのであろう。まさに「冷蔵庫のような祖母」の典型である、と私は思った。その失敗によって、ジュディは計り知れない、致命的なダメージを受け、両親もまたその治療・回復に「全力を尽くさなければならない」事態に追い込まれたのである。「現代社会」においても、その祖母のような「子ども観」「育児観」をもつ親は残存、むしろ増加の傾向を辿っているような気がする。はたして、件の祖母は、11歳に成長したジュディの姿を見て、どのように「評価」するだろうか。いずれにせよ、「自閉症」が「環境要因」によって生じるという「端的」で最もわかりやすい事例であった。著者夫妻がこの研究に着手したのが1970年、だとすれば、まさにこのジュディとの出会いが、その(決定的)契機になったのかもしれないなどと、勝手に想像しながら【六人の自己流治療例】を読み終えた。(2013.12.17)