梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・44

《音声模倣と自発的使用》
【要約】
 上述の問題は、模倣された音声が子ども自身の自発的で、ある程度その場に適合した(意味的な)談話の形成にどのように寄与していくのかという、言語発達問題の核心につながっている。ここには顕現的な音声模倣とその音声の意味的―自発的な使用との発達的な関係だけでなく、観察学習の場合もふくまれている。
 岡本(1961)は、Nという女児を追跡観察して、きわめて興味のある事実を報告している。0歳10ヶ月ごろまでは喃語が意味をもつようになり、そののちに、その音声模倣ができるようになる。これに対して、喃語中にない音声型は、まず模倣的に習得され、その後に意味的となる。さらに、理解としてのみ存在し、一度も模倣されず、直接的自発的になる音声型は1歳中期になって増してくる。岡本はこれらの事実に基づいて、1歳期における語彙の急激な増大は、模倣機能と意味理解の能力の増大に負うところが大きいと述べている。一般に、模倣から自発までの期間は後期ほど短くなり、1歳2ヶ月ごろからは同時形成の場合が生じてきて、漸次優勢となる。


【感想】
 資料として提示されている図「模倣発声と自発的発声との期差」(岡本,1962)を見ると、以下のことがわかる。
*「マンマ」という音声は0歳7ヶ月時に喃語として自発的発声、以後、0歳8ヶ月時に食物の意味を表すようになり、0歳9ヶ月時の最初の模倣的発声をした。 
*「ニャンニャン」も0歳7ヶ月に喃語として自発的発声、以後、0歳9ヶ月時に四つ足の意味を表すようになり、0歳10ヶ月時に最初の模倣的発声をした。
*「チー」(尿意)は0歳9ヶ月時に最初の模倣的発声をし、0歳11ヶ月時に最初の自発的発声をした。
*「バーバ」(祖母)は0歳10ヶ月時に最初の模倣的発声をし、0歳11ヶ月時に最初の自発的発声をした。
*「タイタイ」(入浴)は0歳11ヶ月時に最初の模倣的発声をし、1歳1ヶ月時に最初の自発的発声をした。
*1歳1ヶ月以降は「ネンネ」(寝る)、「トッターツ」(一つ二つ)、「メ」(禁止)、マミマ(豆)、「ミミ」(耳)、「ハイシハイシ」(すもう)、「バップバップ」(後ろへ後ろへ)、「オンリン」(降りる)、「ハナハナ」(鼻)、「アチアチ」(暑い)、「ネータン」(姉)、「パンプ」(パンツ)、「トーパンプ」(父のパンツ)、「ビーカック」(ビスケット)、「ココココ・タン」(ここへ降ろせ)、「ベトベト」(濡れている)「アイマイ」(危ない)などという音声が、最初の模倣的発声が極めて短期間(もしくは同時に)で、自発的な発声に変わっている。
 著者は以上を「きわめて興味ある事実」と評しているが、私も同感である。特に、「模倣から自発までの期間は後期ほど短くなり、1歳2ヶ月ごろからは同時形成の場合が生じてきて、漸次優勢となる」という実態は一目瞭然であった。子どもが模倣するためには、そのモデルが不可欠であり、育児者が適切な(子どもが模倣しやすい)モデルを示していたかが問われることになるだろう。また、「マンマ」「ニャンニャン」「バーバ」などの名詞に加えて、「ネンネ」「オンリン」などの動詞、「アチアチ」「アイマイ」などの形容詞、「ベトベト」などの形容動詞の萌芽も見られる。とりわけ「メ」という禁止句、「トー・パンプ」「ココココ・タン」といった二語文が模倣・自発されていることに私は注目する。「メ」には「ダメ《だよ》」、「トー・パンプ」には「父さん《の》パンツ」、「ココココ・タン」には「ここ《に》降ろ《せ》」といった助詞・助動詞の《意味》が隠れているからである。子どもは意味の方を先に理解して、そのあと音声表現を(「模倣」として)始めるのだろうという「事実」がわかったような気がする。
 岡本氏のサンプルでは、残念ながら、助詞・助動詞の「模倣的発現」「自発的発現」を確認することはできなかったが、今後を読み進めることで、何かがわかるかもしれない。
(2018.6.19)

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・43

《音声模倣と意味》
【要約】
 ギョーム(Guillaume,1925)は、音声模倣はその音声が子どもにとって意味ないし意味の縁辺を伴っているときだけ生じるのであり、意味からまったく離れた音声の模倣ということはありえないという。レオポルド(Leopold,1939)も、自己の追跡観察を基礎として、模倣される音声は意味の理解できるものに限られていると述べ、ピアジェ(Piaget,1945)も、意図的な音声模倣では、それが子どもにとって新しい音声である場合でも、何らかの意味理解を前提としているといっている。レネバーグ(Lenneburg,1964)は、ダウン症の子どもについて、その初期の音声模倣を追跡した。彼はダウン症児の知的発達過程は、正常児のそれを引き伸ばしたもにであるとの仮定のもとで、彼らの音声模倣の発達過程も、正常児のそれを拡大してみせてくれていると考えている。その結果によると、音調やストレスのパターンは比較的容易に模倣されるが、調音面の模倣は再三の練習も効果がないとし、調音面の模倣ができない理由として、意味理解の欠如をあげている。調音面の模倣には“非常に特別な型の理解”が必要であろうという。
 一方、チャーチ(Church,1961)は、子どもはその意味を理解できないときだけ模倣するのであると述べており、ルイス(Lewis,1951)は、音声模倣ははじめは意味の理解される音声にだけ生じるが、音声模倣の成功が子どもに満足感を味わわせることによって、この模倣傾向は異常に活発となり、意味の伴う音声の範囲を超えるという。ただし、これはルイスのいう“潜伏期”の終わり(0歳10ヶ月)以後のことである。


【感想】
 ここで興味深かったのは、ダウン症児の初期の「音声模倣」を追跡した結果、「音調やストレスのパターンは比較的容易に模倣されるが、調音面の模倣は再三の練習も効果がない」ということがわかった、というレネバーグの指摘である。
 もし、自閉症児の初期の「音声模倣」を追跡したら、どのような結果になるだろうか。私の推測では、おそらく「音調やストレス」よりも「調音面」の模倣の方が先に生じると思われる。「音調やストレス」は感情の表現であり、それを模倣するということは、育児者との間で「感情の交流」が始まった証となる。レネバーグが仮定したように、ダウン症児の言語発達は正常児と同じ経過をたどる。彼は「(ダウン症児が)調音面の模倣ができない理由として意味理解の欠如をあげている」が、私は《聴覚的弁別力》の欠如と《構音器官》の機能不全が影響していると思う。
 著者は、音声模倣と(言語の)意味との関連を考察しているが、子どもにとっては《誰の音声を》模倣するかということの方が重要ではないだろうか。「パパも」「パパと」「パパの」「パパに」「パパは」などを模倣するとき、子どもは「も」「と」「の」「に」「は」という助詞の意味を理解して模倣しているとは思えない。生活の様々な場面の中で、周囲の大人が使う音声言語を《習慣》として模倣していくのではないだろうか。模倣には、「○○のようになりたい」「○○のようになれた」という憧れや達成感が伴わなければ、意味がない。子どもは模倣すること自体に(それぞれの)《意味》を見出しているのではないか、と私は考える。(2018.6.18)

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・42

《同一視説》
【要約】
 “同一視”とは、他者と自己を混同することをいう。精神分析の創始者フロイト(Freud)
は、親に対する子どもの同一視が人格の基本要因であることを主張し、その後の人格理論、社会心理学、さらには学習理論をふくむ行動理論に大きな影響を与えている。フロイトの場合には、同一視を、愛着に原因するもののほかに、攻撃に原因するものと防衛に原因とするものに分けたが、今日の多くの理論が愛着的な同一視を強調しているように思われる。“愛着”とは、この場合は、他者に対するきわめて強い関心あるいは情を意味し、幼時においては、それは自己愛と他者に対する成熟した愛情との中間にあるものであり、“依他的自己愛”である。近年、この依他的自己愛に基づく同一視の形成過程についてつぎのような解釈が行われている(Sears,1957:Whiting and Child,1953)。同一視は依存動因の結果として生じてくるが、この動因は母子の間の養育的な相互作用を通じて生まれてくるものである。子どもはこの相互作用の過程で母親の存在とその養育活動を求めるようになるのである。ところが、この動因を母親はつねに充たしてやるわけにはいかないところから、母親の行動を子どもが模写することによって、それに代えようとする傾向が子どもに生じてくる。しかも、このような模写行為は母親が承認し奨励することで直接報酬を受けるので、ますます強められる。このような考え方は、すでに述べたMowerの自閉説にきわめて近い。要するに、これらの主張は精神分析理論を強化学習理論に調和させようとする試みにほかならない。
 上記の説は、子どもが成人の行動に漸次、同調するようになる理由を説明するものであって、社会行動の発達についての注目すべき原理を提供しているといえる。しかし、この大まかな同調行動の原理だけで音声模倣の細部の発達過程を理解することは不可能であり、音声模倣には音声についての特殊的な経験がふくまれなければならないであろう。この意味では、外的強化説のほうが有力であり、さらに、つぎのルイスの主張も一考に値すると思われる。
 ルイスは、音声模倣を喃語活動への成人の音声的干渉の結果であるとし、つぎのように述べている。
“反復される喃語活動の経過のなかで、音声の聴取と発声の交替的パターンが形成され、子どもが喃語活動をしているときに、成人が子どもの音声の一部を模倣して反復すると、聞かれた音声は交替的パターンの一部となり、ついには聞かれた音声は音声面および音調面において、刺激とよく似た発声を喚起するのに有効な性質を帯びるようになる(Lewis,1951)”。
 村井(1961)も、このルイスの説に従い、さらに強化要因を付加して、つぎのように述べている。
⑴はじめに、育児者が子どもの喃語を模倣する。子どもがある種の発声を行ったとき、その途中からそれと類似する音声を育児者が発する。子どもがそのとき、自分の音声を聞いていることになる。子どもの認知は主観と客観の未分化な水準にあるので、自己の発声が育児者の発声と重なり始めたところからあとは、子どもにとっては模倣行動となり、ここに模倣の学習セットが形成される。
⑵子どもの発声はそれの持続中に、育児者の発声によって強化(報酬)されるのであり、育児者の音声は強化因である。
 この種の親子間の“かけあい”が、実際にしばしば生じ、これがある意味(非常に一般的な)での音声模倣の訓練の一つの型であり、ひいては言語発達の一要因であることはまいがいない。ルイスや村井は、初期の音声模倣のきっかけとして、このような母子相互作用をとりあげたと思われる。
 (以下略) 


【感想】
 子どもが音声模倣を始めるのは、「はじめに、育児者が子どもの喃語を模倣する」からであるという説に、私もまた全面的に同意する。
 逆に言えば、子どもが音声模倣をしないのは(喃語活動が活発にならないのは)、育児者が子どもの発声を模倣しないからだということになる。
 20世紀の初頭、アメリカの行動学者ワトソン博士は、子どもを早くから自立させるために、子どもに対して「赤ちゃん扱いしない」「甘やかさない」「赤ちゃん言葉で話しかけない」という育児法を提唱している。その影響は現代にも及んでおり、スポック博士もまた、抱き癖を防ぐために。赤ちゃんが泣いていても「放っておくように」というアドバイスをしていた。
 自閉症児の場合、「泣き声が弱かった」「泣くことが少なかった」「おとなしく育てやすかった」ことが指摘され、喃語活動に関してもその実態はあまり解明されていないように思われる。自閉症が「脳の機能障害である(と推定されている)」ことから、「母子相互作用」の《ありかた》は「不問にされる」傾向はないだろうか。それが、自閉症の要因であるか否かという問題とは全くかかわりなく、自閉症児と育児者の「相互作用」を見極めることはきわめて重要である、と私は思う。
 もし、育児者がワトソン博士やスポック博士の育児法を採り入れていたら、子どもの喃語活動を「模倣する」ことなど《論外》だと排除されるだろう。
 自閉症児の「音声模倣」は、「母子相互作用」(“かけあい”)による「肉声」ではなく、スピーカから聞こえる「機械音」を相手にした「外的強化」によってもたらされたのではないだろうか、と私は考えている。(2018.6.17)