梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・36

■身振りと談話
《音声的伝達の利点》
【要約】
 音声による伝達の基本的特徴はつぎのようである。
⑴聴覚刺激以外の感性刺激は、空間性ないし対象性が比較的大であるが、聴覚刺激はその時系列性ないし線状性のゆえに、事象の記号として、事象とそのものと区別がつけやすい。⑵聞き手が聴覚刺激源に対してとっている方向にかかわりなく効果が生じる。
⑶聴覚刺激は他の感性刺激と同時に与えられても、それらと混同されたりそれから干渉されたりすることが比較的少なく、明確に感受される。
⑷音声は、比較的単純なパターンの場合であっても、互いに弁別しうる豊かな種類として容易に識別される。
⑸音声は即座に、自由に、かつ十分連続的に、短時間内に生産できる。
《身振りによる音声伝達への補足》
 音声による伝達は、一方では新しい表示領域を開拓していくが、他方では、いままで身振り表示によっていたものに肩代わりしていく。しかし、身振りの側からみると、初期には、身振りは音声による表示が進められていく段階でその意味を失うことなく、かなり長期にわたって用いられ、音声による伝達をより直接的・印象的にし、一義的にする効果がある。  
 談話の初期発達段階では、身振りはとりわけ談話の表示上の不足を補うのに役立っている。村田(1961 b)は、16名の1歳児からの談話としれに伴う身振りの観察記録を分析して、1歳前期では身振りが談話の補足に役立ち、1歳後期ではこの傾向が弱まってくることを明らかにしている。


◎身振りの補足を必要としない談話の割合(%の中央値)
・1歳前期(N=8) 指示 0.0  提示 0.0  絵画的0.0 計0.0
・1歳後期(N=8) 指示50.0 提示25.0 絵画的0.0 計63.0


 上の表は、1歳前期と1歳後期にわけて、伝達のために身振りを必要としなかった談話数のパーセンテージの代表値(中央値)を示したものである。前期、後期ともに8名から成る。この表によって、後期になると伝達のために身振りを必要としない談話が増してくること、談話が自立的な表示能力をもってくること、が示されている。


【感想】
 今、帽子を指さしながら「その帽子をかぶりなさい」と言う時と、音声だけで「帽子をかぶりなさい」と言う場合では、どちらが正確に伝達できるだろうか。通常なら、前者の場合であろう。特に、聴覚障害のある人、外国人の場合などはなおさらである。ところが、一方で、指さしという身振りを併用することで、伝達が困難になる場合は考えられないだろうか。指さしの意味も音声の意味もわからなければ、ただ指さしの模倣をするか、音声をオウム返しに模倣するかもしれない。あるいは、身振り(視覚)と音声(聴覚)という二つの情報を「同時に」受け取らなければならないということで、混乱が生じるかもしれない。
 発達という観点からみれば、音声による伝達を踏まえて、身振りによる伝達が成り立つことは明らかである。著者は、音声伝達の特徴として「聴覚刺激は他の感性刺激と同時に与えられても、それらと混同されたりそれから干渉されたりすることが比較的少なく、明確に感受される」と述べてるが、発達に問題が生じている場合にも当てはまるかどうか。 私の経験では、聴覚障害児の場合、聴覚と視覚の刺激が同時に与えられると、視覚依存の傾向が高まり、聴覚情報は「切り捨てる」「遮断する」ように思われた。では、自閉症児の場合あるいは学習障害児の場合はどうであろうか。などという問題意識をもって、以降を読み進めたい。(2018.5.23)

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・35

■身振りによる伝達の限界
 身振りで非現実事象を表示することは可能であるが、音声行動と比較すれば大きな制約がある。そのおもな理由としてつぎの三つをあげることができる。
⑴大部分の身振りは、それが行われる事態に依存して表示の一義性を達成する。
⑵身振りで高度に抽象的な事象を表示することができない。
⑶身振りの単位は言語の単位(語)と同じではなく、談話と等価の単位である。個々の身振りは文や句のように連結して用いられることがあるが、その連鎖の内部に組織ないし構造をもつことはできない。
《表示の多義性》
 身振りが、それが行われる事態から引き離された事象を表示できるのは、身振りの受け手にとって、そこで“言及”される内容の範囲が、あらかじめ相当限定されている場合に限られる。聾幼児の指示行為に典型的にみられる(Heider and Heider,1940)。聾幼児の行う指示には、対象の表示と、人との接触の形成という二つの職能が認められる。さらに、指示行為は重複使用することによって叙述的表示となりうる。たとえば、自分を指示し、続いて対象を指示するとき、そこに種々の意味を伝えることができる。この二重指示は、単に“わたし、これ”ではなく、“これはぼくのものだ(所有)”、あるいは“これはぼくが作ったものだ(作製)”などの叙述として通用する。所有の表示か作製の表示かは“これ”とよばれる対象の性質と、“ぼく”の能力、ならびに、与え手(子ども)のそのときの表情・態度からの推測、などの総合によって決定される。このことは、この種の身振りの多義性を証拠立てるものであり、身振りは一般にこのような多義性をもっている。
《抽象的表示の困難性》
 身振りは主として大きな身体運動を媒体としているが、身体運動は本来、環境への物理的な働きかけをその第一の目的としているので、その表示性は物理的実用性に先取され、妨害される傾向がある。また、このような運動は、具体的な対象との連関や実用性を示唆するため、高度に抽象的な事象を表示することが困難である。等価性とか類似性のような、比較的単純だと思われる関係表示でさえ、身振りで行うことは容易ではない(Witte,1930;Heider and Heider,1940)。
《身振りの単位》
 身振りの単位は語ではなく、個々の身振りを組み合わすことによって文が作られることもない。身振りの連鎖は文ではなく、構造をもつことがない。身振りには格や機能語にあたるものがまったく欠けているし、名詞、動詞、形容詞などの大まかな分化さえない。


【感想】
 現在、聴覚障害児・者(相互)には「手話」という「身振り」が使われており、また、知的障害児・者、自閉症児・者など、「音声言語のやりとり」が苦手な場合には、「マカトンサイン」という方法も開発されている。
 ここでは、身振りによる伝達の限界が述べられており、「手話」や「マカトンサイン」だけでは、「高度に抽象的な事象」を表示することが困難であることを示唆している。
 私は現職時代、身近な聴覚障害者から「手話」を学んだ経験があるが、同じ「言語」でも、対応する手話が「その時によって、その人によって変わる」(一定ではない)ことに興味を惹かれた。また、聴覚障害者を配偶者に持つ同僚とも交流があったが、彼ら夫婦の間の「会話」(手話)は60%程度「しか、通じ合えない」ということであった。しかし、音声言語によるコミュニケーションでも100%通じ合えることは困難であるとすれば、視覚的手段だけで半分以上通じ合えるということは素晴らしいことだと思った。
 一般的に、自閉症児・者の認知は「視覚優位」であり、物理的環境の「構造化」がコミュニケーションをスムーズにすると考えられている。聞いてわからないことでも、見ればわかる、という状態は「聴覚障害」と同じである。しかし、自閉症児・者に「聴覚障害」はない。いわば私たちが、いきなり言語の通じない社会に「投げ出された」ような状態なのかもしれない。では、なぜ、そのような状態が生じるのだろうか。以降を読み進めることで、その要因がわかるかもしれない。(2018.5.20)

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・34

■自発的身振りの発達
《身振りと“内的言語感覚”》
【要約】
 レベス(Revesz,1956)によれば、音声が“内的言語感覚”の影響を受けるようになるとき、音声言語行動が形成される。これと同様に、身振りもこの要因の関与によって、象徴化を開始するという。それは身振りの形ではあるが、一種の“言語的行動”である。レベスは、音声と身振りとが共通の“言語的”基礎に立って発達すると考え、音声と身振りとの間につぎのような発達的等価性ないし対応を認めている。
⑴ 表出的音声 対 反射的身体運動
⑵ 非意図的呼びかけ 対 身振り的接触運動
⑶ 意図的呼びかけ 対 手や表情による命令的および叙述的な表示
⑷ 語 対 象徴的身振り
 ⑷の発達水準では、“内的言語感覚”が音声にも身振りにも共通に働いているとレベスは考える。“内的言語感覚”という概念は十分に定義されてはいないが、“言語”の習得を前提とした機能とは考えられず、また人間に生得的に備わり成長の過程で自然に現れてくるものとも考えられない。
 人間社会からまったく隔絶された幼児に⑷はおろか、⑶あるいは⑵の水準の身振りさえ期待することができないのではあるまいか。彼らには“内的言語感覚”を育て上げるのに必要な人間文化からの影響がまったく欠けているからである。人間文化のなかにある幼児であれば、言語に基礎づけられたもろもろの文化の影響を受けていることは疑いのないところであり、これが彼らに“内的言語感覚”を形成させ、かなり高度の象徴的身振りの理解と自発的使用を可能にしていると思われる。身振りは音声言語行動に対して補償的に発達すると考えられるが、これは両種の行動に共通に働く“内的言語感覚”の存在を暗示するものである。
《身振りの象徴化の理論》
 身振りの象徴性が強まるとともに、身振りそのものの形が表示される事象から解放されてくる。事象の客観的特性や、それに対してなされる実用的行為からますます離れ、それ自身で独立した性質を帯びてくる。このような発達的特徴を、ウェルナーとカプランは、“空間的ー時間的疎遠化”という用語で表現している(Werner and Kaplan,1963)。空間的過疎化とは表示されるものと表示するものとの類似性の減退を意味し、時間的過疎化とは、表示される事象の非現前性の増大を意味する。このような二重の疎遠化によって、表示活動の自立性が達成されるというのである。


【感想】
 ここでは、音声言語行動が“内的言語感覚”の影響によって形成され、身振りもまた“内的言語感覚”によって象徴化を開始するという、レペスの所論が紹介されている。また、音声と身振りとの間には、発達的等価性があり、表出的音声(喚声)には反射的身体運動運動、非意図的呼びかけ(喃語?)には身振り的接触運動、意図的呼びかけには手や表情による命令的・叙述的表示、語には象徴的身振りが「対応」するということである。
 “内的言語感覚”とは何かについては「十分明白に定義されていない」が、幼児が人間文化の中に身を置くことによって形成されるものであり、それが象徴的身振りの理解と自発的使用を可能にしている。
 自閉症児の問題は「人間文化の中に身を置いている」という事実があるにもかかわらず、レペスのいう「⑴表出的音声 対 反射的身体運動」もしくは「⑵非意図的呼びかけ 対身振り的接触運動」の段階にとどまっているように思われるが、それはなぜか。いいかえれば、自閉症児の“内的言語感覚”はどこまで育っているのか、という問題に私は注目する。以下を読み進めることで、その解答が得られることを期待したい。
(2018.5.15)