梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

内閣支持率56.9%の《意味》

 元文部科学事務次官・前川喜平氏は、東京新聞9月13日付け朝刊23面『本音のコラム』」(「日本国民は蒙昧の民か」)で、「安倍晋三首相の辞任表明と菅義偉氏の自民党総裁選出馬表明の前後に行われた世論調査の結果には、暗澹たる気持ちになった。」と記している。それは、辞任表明前に共同通信が行った世論調査では、内閣支持率が36.0%まで落ちていたが、辞任表明直後には56.9%に「跳ね上がった」ことに因る。つまり、安部首相が辞任を表明することで、かえって支持率が上がったこと、つまり主権者たる国民の意見が、短期間のうちに極端に変わったことを憂いていることになるが、私自身は「世論も捨てたもんではない」と思った。過半数の国民が、辞任表明後の安倍内閣を支持したのは、むしろ《安部首相が辞任すること》、すなわち《安倍内閣が退陣すること》、要するに《安倍内閣に対する不信任》という意見が56.9%に「跳ね上がった」ということだ。
 自民党は、内閣支持率が上がった機会をとらえて、一気に「解散・総選挙」を目論んでいるようだが、《面白い!やってみるがいい》。前川氏は後段で「愚かな国民は愚かな政府し持てない。賢い国民が育つためには決定的な役割を果たすのはメディアと教育だ。」と述べているが、権威主義や事大主義に毒されているメディアや教育関係者よりは、まだ《国民の方が賢い》、と私は思っている。
(2020.9.13)

自民党総裁選の《噂》

 事の真偽はともかく、《噂》によれば、自民党の次期総裁に菅義偉氏が決まったのは、現副総理の麻生太郎氏が《激怒》したからだという。
 安倍首相が辞任を表明したとき、次期総裁は岸田文雄氏にという思いが、安部氏自身の念頭にあり、副総理の麻生氏も了承していた。したがって、当初は「岸田氏で決まり」ということだったのだが、それを覆してしまったのは、岸田氏自身だというのだから興味深い。岸田氏はいよいよ次期総裁の座が自分に回ってくることを確信し(たかどうかは不明だが)、まず派閥の大先輩・古賀誠氏のところに挨拶に行った(会食を共にした)。その次に、副総理の麻生氏のところに挨拶に行った。ところが、その時の麻生氏の態度はケンモホロロで、岸田氏は適当にあしらわれた。なぜなら「古賀とメシを食ってから、オレのところに来やがった。順番が違うだろ!」と麻生氏が激怒したから。その感情が一気に「次は岸田ではなく、菅だ」という思いに走らせ、自民党の第二派閥・麻生派55人の国会議員は「菅支持」に回ったのだそうである。
 ちなみに、最大派閥は安部首相が所属する細田派98人、次が麻生派55人、さらに竹下派54人、二階派47人、岸田派47人、石破派19人、石原派11人、谷垣グループ15人、菅グループ9人、無派閥41人といわれている。 
 麻生派が「菅支持」を明らかにしたことで、岸田派、石破派、無派閥を除く他の派閥も次々に「菅支持」に回ることになった。これではどうみても岸田氏や石破氏に勝ち目はない。
 以上が「自民党総裁選」に関する《噂》だが、《とかくメダカは群れたがる》。自民党国会議員の品性は、文字通り「寄らば大樹の陰」「長いものには巻かれろ」、「反社会集団」対「一般市民」の構図そのままに、未熟の極地という他はない。なにが《先生》だ。およそ、議論とか論議とは無縁のところで、物事が決まっていくことが嘆かわしい。
 とりわけ、麻生太郎氏の未熟さには開いた口がふさがらない。彼は現在、副総理だ。
 いうまでもなく〈副総理とは、日本において内閣総理大臣に事故のあるとき又は内閣総理大臣が欠けたときに臨時にその職務を代行する第1順位の国務大臣として内閣法第9条に基づき指定された者(内閣官房長官でない場合に限る。)の呼称。辞令等に記載される正式な官職名ではない。内閣において内閣総理大臣に次ぐ席次を与えるために用いられる。〉(「ウィキペディア百科事典」より引用)
 安部首相が「病気のため国民の負託に応えられなくなった」というのだから、今、まさに、内閣総理大臣としての責務を果たさなければならない時に、《昨日の友は今日の敵》然として、かつての盟友・古賀氏(80歳)への私怨・私憤など、青い青い。79歳にもなってこのザマだ。もう、自民党にはまかせられない。とはいうものの、彼ら以上に「風見鶏」然としている野党議員の面々にも絶望するほかはないのである。嗚呼・・・・。
(2020.9.11)

中国の「反日デモ」は《いつかきた道》

    日本政府が尖閣諸島を国有化したことによって、中国の「反日感情」が高まり、連日のデモが展開されている。デモは暴動化の危険をはらみ、日本大使館、民間企業への「攻撃」模様も報道されている。デモの参加者には若者が多いことから、この「反日感情」、中国の学校教育によって育まれたものと推測されるが、一方、日本の若者(の大半)は、そうした「国際情勢」に、とんと無関心のように見受けられる。それでよいのだ、と私は思う。もともと、この地球に「国土」などという代物は存在しない。それは野生動物のテリトリーと大同小異、人間同士が「国土を守る」ために「殺し合う」ことは、愚の骨頂である。日本はかつて「貧乏を克服するため」に、国土の拡大を図ったが失敗、300余万人の国民が犠牲になった。他国民の犠牲者は1000万人~3000万人とも言われ、判然としないが、いずれにせよ、国土、国民を守ろうとして、実は「(国民に)犠牲を強いた」だけの結果に終わったのである。爾来60余年、日本の国土は縮小、国民の貧乏も極まったが、ひたすら(国民は)「働き続ける」ことによって、ともかくも今日のような復興を果たしたという次第・・・。この間、「憲法第九条」の手枷・足枷もあって、日本の若者たちは(国土を守るための)「殺し合い」を体験することなく、時代は次世代へと移り変わる。当然のことながら、日本の学校教育は「国土を守る」ことなどには無関心。戦争の学習は「忌まわしい過去」(前世代の過ち・恥)として、葬り去られてきたように、思う。そのことが吉とでるか、凶とでるか、未来はわからない。しかし、中国の「反日デモ」を見る限り、彼らは「(日本が)いつかきた道」(お粗末な民族主義)を、間違いなく辿っているようである。スローガンは「排日」から「反日」に代わっても、根底に流れるのは「愛国無罪」・・・、かつての日本が愛用したキャッチフレーズと「瓜二つ」ではあるまいか。少なくとも、(欧米化した)日本の若者に「愛国心」は存在しない。せいぜい(サッカー等、スポーツの)サポーターとして息巻くのが関の山、武器を持って「国土を守る」ことなど、夢のまた夢、の話であろう。とはいえ、今や世界の戦争は、「民間軍事会社」の独擅場、彼らは息を殺して「出番」を待っていることは、たしかなのである。(中国の、そして日本の)「若者よ、体を鍛えてお」くな!君たちが「闘っても(殺し合っても)」得るものは何もない、「国土」も「国民」も、所詮は「(空しい)虚構の産物」、そのことを(歴史から)学ぶべきである。
(2012.9.19)