梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「広汎性発達障害児への応用行動分析(フリーオペラント法)」(佐久間徹・二瓶社・2013年)通読(7)

《第五章 発達障害児をめぐる諸問題》
【医師の診断について】
・現在のところ、病気なのか単なる行動上の偏奇なのか明らかではない。いくつかの薬剤があるものの、いずれも、教育指導との併用を条件にしていて、主役は教育指導の内容である。
【発達検査について】
・検査という名前で呼んでいることに疑問を感じる。
・私自身は、45年も発達障害児を扱っていて、自分では一度も発達検査をしたことがない。1時間以上も子どものセラピーをしていたら、検査よりも正確に発達指数がわかるからである。
・臨床心理学の教科書では、アセスメントをことさら重要視しているが、信頼に足るアセスメントの手段が存在しない。重要視すべきだが、信頼に足る手段が存在しないので、意味を成していない。
・現行の発達検査を障害児たちに有料で施行するのは、全くの詐欺行為であり、無料で施行するのは税金の無駄使いと言わざるを得ない。
【児童相談所について】
・2005年に児童虐待防止法が施行され、相談所所長が虐待の事実を知ったらすみやかに虐待児を強制的に親から引き離して施設収容する権限を持つようになったが、相談という仕事の本質に相容れないものである。ついつい子どもを虐待してしまうという悩みの親はどこへ相談にいけばいいのだ。
・ヨーロッパ諸国では親の子育ての問題としてまず、親子関係の改善が優先され、それがどうしても困難な場合に、子どもを暴力から守る手段として子どもの強制収容がなされるという。
【民間施設について】
・ここ5年ほどの間に、東京、大阪、名古屋、京都、神戸等の大都市で応用行動分析の指導を看板に民間施設が次々にオープンしている。かなり高額な料金で繁盛しているのは、税金で運営されているところがいかに怠惰で無能な仕事しかしていないかを物語っている。しかし、かなり怪しげな施設がブームのおこぼれに預かろうというのもある。
【保育所、幼稚園について】
・保育所、幼稚園は子どもの生活の場である。発達遅滞児を病院。児相、施設という特殊なところへ抽出して特別な指導をすると、効果があっても同時に必ず発達上の歪みを作ってしまう。発達遅滞児に専門家は不要である。保育所、幼稚園の先生は今より少しばかり障害児関連の勉強をして、自分たちが障害児指導の主役であるとの気概をもってほしい。障害児との経験は健常児についての理解を格段に高めてくれるものである。
・親たちのすべきことは、有能な専門家探しではなく、優秀な保育所、ハイレベルな幼稚園の選択である。園庭に面した道路で30分以上じっと聞き耳をたてて、中から聞こえてくる先生や園児たちの声を聞いてみてほしい。ことばや内容を無視して、先生の大きな声と園児たちの声が何対何の割合で聞こえてくるかを観察する。先生の声よりも園児たちの声がたくさん聞こえてくるところがお目当ての施設だ。先生の大きな声ばかりが聞こえてくるところは、指導能力が貧弱で、命令、指示、叱責が多いところである。園児の声が大きく、先生の大きな声がほとんど聞こえてこないところは、大声が必要なく、命令、指示、叱責が小さな声で十分だからだ。そんな保育所、幼稚園を選んでほしい。
【小学校について】
・小学校普通学級、小学校支援学級、支援学校小学部の三つのコースがあるが、一番大きく結果を左右するのは、進路ではなく、担任教師の指導力である。ところが、担任の選択ができない。したがって、進路で悩むのは意味がない。いい先生に受け持ってもらえたらそこがベストになる。
・場合によっては、最悪の担任ということがあり得る。現在の学校のシステムでは、親子でその担任から逃げるしかない。話し合いで妥協が見つかれば最悪ではないが、最悪だと判断したら、支援学級、支援学校への転校、引っ越しによる転校、不登校(積極的オサボリ)で対処する。
・親は、モンスターペアレントと言われようが何と言われようが、自分の主張、自分の言い分を押し通すべきである。自分の方に教育を受ける権利があるのだ。
・「この子に最後まで付き合うのは親です。学校は自分たちの指導の責任を負うわけではない!」
【いい先生について】
・いい先生とは、指導計画を作らず、作ってもそれに従わず、なんの指導もせず、子どもを一切拘束せず、黙って子どもを観察する先生である。そして、子どもが示す行動に受け身で反応して、行動の楽しさを増幅させる人がいい指導者である。これが、発達レベルに合致した活動を実現させる基本である。ところが、学習、教育を苦痛に耐えることが重要と勘違いしている。大変な勘違いである。楽しい活動は苦痛が苦痛でなくなる。大切なのは苦痛ではなく、楽しくなることの方なのである。
【お金と趣味について】
・おつかいができるようになったり、自販機や電車の券売機が使えるようになったら、少額のお金を財布に入れて、そのお金は自由に使っていい、なくそうが人にあげようが無駄遣いしようが、完全自由にする。お金について欲求がでてきたら、簡単なお手伝い、ドリル1ページをしたら、などなど適当な課題遂行にご褒美のお金を与える。お金の指導経験はまだ十例前後だが、トラブルは1件も出ていない。
・お金で自分の欲しいものが自由に手に入る、手に入れたお金で人を喜ばせることができる、お金を貯めると大きな力になる、この三つのバランスがとれていなければならない。
・バランスは直接指導できない。お金に関するさまざまな経験の蓄積結果としてしか身につかない。長期戦である。
・われわれには日々の生活に必要なこと以外にホビーと呼ばれる活動が必要である。言うなれば、趣味、道楽の類である。楽しみができると同好仲間ができて社会性の発達が進む。生活のハリも出てくる。と同時に、お金へのモチベーションもできてくる。
・学校ではトークンエコノミー法(ご褒美に物品をプレゼントする)を持ち込むといい。
・子どもが少しでも好きそうなもの、少しでも楽しそうな時に、ことさら一緒に楽しく振る舞い、ことさら一緒に面白そうに振る舞う。これを根気よく積み重ねると、楽しい、う
れしいという気分がしっかりとできあがる。模倣行動の感情版である。こうしてなによりも大好きな活動、ホビーを作る必要がある。


《まとめ》
・ことばは、人と人との間のコミュニケーション手段である。言語発達のためには、まず、人を好きにならなければならない。依存し、依存される関係が基礎になる。相互に音声を受け取り、音声を発信することが、この上なく楽しいことでなければならない。
・言語の発達が遅れているからといって、単語を一語一語教えてことばが獲得できるほどことばは単純なものではない。言語発達遅滞という問題の解決のカギは、言語発達のための条件整備と発達妨害要因の排除である。
・喃語の相互模倣からスタートして、有意味語の生成を待つ。発声や発語の強制は厳禁、あくまでも自発発声、自発発語を待つ。発音やことば使いの修正、訂正も厳禁。修正、訂正が一番の言語発達妨害要因になる。赤ちゃんことばを経由せずに成人の言語レベルに達する人はいない。発達過程で働く自動的行動修正機能の働きを待つべきである。
・発声の相互模倣と行動の相互模倣を同時進行させていると、社会性や身辺自立も付随的に発達が進行する。社会性と呼んでいるものの大半は、相互模倣だからである。同じ動作を一緒にするようになると集団参加が可能になり、共通の内的過程を経験するので人の気持ちが理解できるようになり、場の雰囲気が読めるようにもなる。
・訓練で一つ一つ積み上げる指導はどうしても発達に歪みを作ってしまい、訓練がきつすぎると強烈な拒否反応に出会う。十分に模倣反応の自発性を高めれば、発達の大半は模倣反応を誘発させるモデルの提示だけですむ。模倣反応の形成をマッチング訓練で進めるやり方では子どもを受け身にしてしまうので、どうしても自発性が貧弱になる。
・数々の不適応反応は、現実の生活上の困難に応じて対応すべきである。生活上の困難がさほど深刻でなければ積極的に解決せずに放置しておく方がいい。発達が進行すればゆっくり緩和され、消失する。生活上の困難が深刻な場合には、不適応行動の消滅ではなく、弱化を目指す方が効果的である。不適応行動をなくすのではなく、行動強度を弱めるのである。(反応強度分化強化法の適用)


〈感想〉
・ここでは「発達障害児をめぐる諸問題」が列挙されているが、いずれも「全面的に同意」できる。それらの諸問題を解決できるのは、子どもと最後までつき合う「親」をおいて他にない、という著者の思いが痛いほど伝わってきた。また、《まとめ》では、本書の内容が簡潔に要約されており、この部分を読むだけでも価値がある。「ことばはコミュニケーションの手段であり、言語発達のためには、まず、人を好きにならなければならない。依存し、依存される関係が基礎になる」。また「相互に音声を受け取り、音声を発信することが、この上なく楽しいことでなければならない」といった基本理念は、とうてい《科学的》に説明できるものではないが、さればこそ「真実」であると、私は確信する。「自閉症は治らない」ということを科学的に証明したところで、親にとってどれほどの意味があるだろうか。「自分の育て方は間違っていなかった」ことを確認すれば、今後の展望がどのように開けるのだろうか。大切なことは、「好き」とか「楽しい」とかいう(科学では説明しにくい)感情を、親も子どもも《実感》できるように《支援》することではないだろうか。本書が出版されたのは著者78歳時、これまで45年間にわたって「臨床」一筋に貫かれた経験値が、どのページにも散りばめられている。小冊ながら「稀有」な一作として座右に置きたい。(2014.5.17)