梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

三島由紀夫・「愛の乾き」「真夏の死」

 三島由紀夫の作物、「愛の乾き」(昭和26年)、「真夏の死」(昭和27年)読了。この二作物を読んで、文学とは何ぞや?、とりわけ、「小説とは何か」という問題に対する回答が容易にできるような感じがする。要するに、文学とは、小説とは、「所詮、言葉を弄ぶ児戯に等しい」ということである。およそ、人間の生活にとって大切な情報は、「いつ、どこで、誰が、何をしたか」という観点だと思われるが、文学とが、小説とは、それに加えて、「どのように(どんな気持ちで、どんな様子で、どんな方法で)」という観点が、執拗に「誇張」「拡大」され、目に見えない「意識」だの「イメージ」だのと呼ばれる代物が、ことのほか「珍重」される、ろくでもない世界だということである。
 例えば「愛の乾き」、浮気者の亭主と死別した未亡人が、その義父と同衾し、かつその家の下男を恋慕するという「他愛もない」話、終章ではその未亡人が下男を(農具で)「撲殺」するという荒唐無稽な筋書で、その(文学青年的な)「青臭さ」には辟易とさせられた。書くことだけなら誰でもできる。大切なことは、その描かれた内容にどれだけの「真実味」が秘められているか、ということであろう。この作物においては、作者が意味のない「美辞麗句」を連ねれば連ねるほど、上流階級の衒学趣味をひけらかせばひけらかすほど「興ざめ」気味で、その「青臭さ」「未熟さ」が鼻についただけ・・・、という結果であった。    
 加えて「真夏の死」、〈これは伊豆半島の南端近く、まだ俗化されない、浪のやや荒い海水浴場が舞台で、ある夏のこと、避暑に来ていた二人の幼児と、その叔母に当たる老嬢とが「事故死」するという筋書で、(おそらく上流階級であろう)幼児の両親が受けたショックの様態、徐々に「立ち直るまでの」経緯、やがて次子を懐妊・誕生するまでの心境などが「きめ細かに」綴られてはいるのだが、やはり、作者がこの作物を通して「何を言わんとしているのか」いっこうに判然としなかった。
  私自身の、下卑た「勘ぐり」によれば、いずれの作物においても「言わんとしたかったこと」はただ一つ、「どうだ!おれの作文能力を思い知ったか」という「美文家としての矜持」に過ぎないのではないか。綴られた文章の背後から、「おれはこんな言葉を知っている」「こんな言い回し(文章表現)だってできるのだ」などという、三島由紀夫の「青臭い」叫びが聞こえてくるような気がする。そのこと(自意識・自己顕示欲)は単に「言葉の世界」にとどまるばかりか、演劇、映画、スポーツの分野にまで波及、とどのつまりは、自衛隊突入、割腹自殺を遂げるといった「荒唐無稽」な生き様に収斂されていったのではないか、と私は思う。
  文学とは、本当にその程度のものなのか、他の作物を通して再考したい。
(2009.2.24)