梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「言語発達の臨床第1集」(田口恒夫編・言語臨床研究会著・光生館・昭和49年)通読・1

 「言語発達の臨床第1集」(田口恒夫編・言語臨床研究会著・光生館・昭和49年)という本を通読する。これは、昭和40年代末期、お茶の水女子大学家政学部児童学科言語障害研究室・言語臨床研究会が、(最近数年間の)「臨床経験」をまとめたものである。私自身も昭和47年から52年まで「言語治療教育」にかかわっていたので、その「臨床経験」を大いに参考にした思い出がある。当時の実践をふりかえりながら再読したいと思う。


《1章 言語発達遅滞児の臨床》(田口恒夫)
【要約】
 最近は、ふしぎな特徴を持った子どもがふえているとわれる。それは、従来言われているような、聴力、一般的知能、発語器官の運動機能、環境的にみた言語刺激の量などの要因ではうまく説明がつかないような、言語発達の遅れを示し、しかも、ちょっと奇妙な行動症状をもった子どもたちのことである。その子どもたちに対しては、しばしば、自閉症とか自閉傾向とか微細脳障害症候群とか発達性失語症とかいったような名前がつけられている。われわれはそういう診断名は使わない。しかし、われわれも、そう呼ばれるおそれのある子どもたちを、たくさんみてきた。これは、最近数年間の、そのような子どもたちとともに動き、その子どもたちに学びながらやってきた、われわれの、言語臨床家としての臨床経験のまとめである。
【1.従来の考え方とやり方】
1)診断
・アメリカ言語病理学の流れをくんだ従来の考え方とやり方に従うと、段どりとしてはまず、ことばに遅れがあるかどうか、あるとすればどの程度かを評価する。この評価は子どものことばの“現症”を“標準値”と比較することによって行われる。たとえば、喃語、初語、2語文、構文、語音の正しい構音などが何歳何か月に出たかとか、表現語彙が何個あるかなどの点が主体になっている。標準値との差が著しくなければ“問題なし”と片づけ、著しければ“遅れ”と分類する慣例である。
・その段階ですでに、コミュニケーション機能から重大な問題をもっている多くの子どもが“正常”と分類されて何のサービスも受けられなくなっている。一方では、マイペースでゆっくり着実に健全に成長しているけっこうな子どもが、たくさん、発達遅滞児と分類され問題視される。
*そういうふうに2つに分けてみても、臨床的にはほとんど何の意味もなさないのであるが、なにかいちおう問題の規定ができたかのような幻想に陥りやすいのはふしぎなことである。
・“遅れている”と分類されたら、次の仕事としては、その原因は何かを追求することになっている。原因の探し方としては、主として次の5つの点をマークして生育歴調査や医学的・心理学的検査などを行う。①精神薄弱 ②ろうまたは難聴 ③発語器官の運動障害
④情緒的障害 ⑤環境的な問題。                         *こういう考え方の底を流れているのは、人体生物学的・細胞病理学的診断法の影響を強く受けた、臨床医学的診断学の思想であるように思われる。
*“標準に達していないこと”が“異常”であり、異常には原因がどこかにあるはずであり、それは子どもの心身か親の扱い方のどちらか、またはその両方にあるはずだという考え方である。
*子どもの成長について、急性の胃の病気などの場合と同じような、固定した1対1の因果関係の存在を仮定し、その原因を主として3つの身体的欠陥かまたは環境的な問題ないし、情緒の障害と呼ばれている何かよくわけのわからないことのせいにしようとする。これで、おおかたはそのどれかにあたはまるはずだという印象を与えている。
*遅れが軽い場合なら、親の“過保護”や“放任”のせいにするか、“単純性”という名をつけたりして問題のむずかしさをおおってすませる。重い場合やうまく説明できない症状がある場合には“特殊な問題”とみなして、行動異常と精神・神経学的所見に注意して、それを基に、とつじょ、まったく別の分類を持ち出して処理するという方法をとる。
2)治療
・環境的要因に欠けるところがあったと判断した場合には、いわゆる一般的な“ことばの衛生”に注意する。その内容は主として学習理論的発想によるものであり、“刺激”と“賞”や“罰”を与えることによって教育しようということである。
・知的に遅れていると判断した場合には、その遅れとことばの遅れなどについてはあまり深く検討することもなしに、“学習能力が低いのであるから教育効果は上がるまい”として敬遠する。
・末梢聴力や発語器官の運動機能などの身体的欠陥があると判断した場合には、その欠陥自体は“器質的”で変えることのむずかしい性質のものであるから、補聴とか運動機能訓練などのような、よかれと“思われる”補助的、補足的な方法を使う。
・結局、もっとも変えうる可能性の大きいのは環境的な面であるために、ことばの刺激やプログラムをくふうした教育計画を立て、それを実行してみることになる。こんなことを週1回とか2回とか、1回40分とか90分とか、通わせて試行することで、いったいどれだけのことができるのだろうかという不安をもちながら、実行する。
・それでたまたまうまく成長すれば、やれやれと喜ぶ。思うようにいかないと、なかなか態度をかえてくれない親のせいにしたり、“むずかしい子”だということで、子どものせいにしたりする。
*ざっとこんなぐあいである。
3)現実の問題
・みっちゃんは、Rh-Childに特徴的な行動異常症候群を持っていた。たとえば、注意転動、音刺激に対する反応の浮動性などの注意力の障害、過動、無鉄砲なみさかいのない行動などである。そういうものの大部分がわずか数ヶ月の間に、急速に薄れ、色あせてきて、いまこの子は、普通の、元気な“ただの”Athetoid CP像に近づいてきている。
・ひろちゃんは、人に対して遠慮する。断じてわがままを言わない。母親に対しても。人に対して妙に緊張する。とてつもない緊張である。その緊張は外からは見えにくい。すぐ上の兄は術後口蓋裂で声門破裂音を多用している。その兄の話し方をいつのまにかほぼそっくり写し取って身につけてしまった。その話し方で話し続けている。自分の話し方と兄以外の他の人びとのことばとの違いに気づきにくく、話し方を変えることができないまますでに何年も経過している。構音治療に対してがんとして抵抗している。この場合の、“緊張”や“模倣”や“学習の困難さ”や構音障害の“がんこさ”は何だろう。どう考えたら納得がいくにであろう。
・エリちゃんは難聴である。専門のaudiologistからもずっとそう言われている。しかし末梢聴力の感度は、子どもが音に対してinattentiveで、音に対する反応がinconsistentなため“正確には測りにくい”。しかしどうやらあるlevel(およそ40dB)よりひどくはないらしい。ところが、はるかに強い80~90dBの音にも90ホーンほどの人声に対しても、ケロッとしていてまったく気づいていないかのように何の反応もみられないことが多々ある。一方では、ささやき声に対してことばで答えたりすることもある。これはどういうことなのか。
4)臨床家の仕事
・臨床家の仕事はしろうと百姓の畑仕事に似ている。いつもはてしなくまごまごとした仕事があり、始終やっかいなわけのわからぬ問題がもちあがってくる。そのわけはいつもわからないし、うまく説明できない。親や家族は「どういうことですか、どうすればいいのですか、助けて下さい」と言い続ける。
・職業人、とくに臨床家は黙ってはいられない。「わからないので考えています」「まだよくわかっていないことなのです」「よかれと思うことをいっしょに考えてやっていきましょう」・・・。
・ほんとうはそこまでであろう。ところが世の中はそうなってはいない。やむにやまれず、知らないことまで教えようとする。教えているうちに、自分自身が暗示にかかる。その教えを身につけ、信じ、自分が本来知らなかったということを忘れていく。“わからないこと”を“わかっていないこと”だとしておく代わりに、わかっていないことの一面をとらえてそれに名まえをつけ「その名まえの意味していることがらの結果であることがわかってきた」と言い変えるのである。その名まえも通常きわめてsophisticatedなもので、生物学的・学習心理学的だったりする。たとえば、精神薄弱による言語発達遅滞、自閉的傾向、Rh-Child,精神ろう、先天性・発達性失語症、脳損傷、微細脳機能障害症候群、最近では心理神経学的学習障害などがその例である。
・しかし、それはしばしばおおかた虚構であり、実際の児童臨床にはそのままでは使いものにならない。
・それでも臨床家は、それに学び、それに頼るし、それに説明を捜し求めようとする。一方では、個々の子どもに即して、それぞれの好みに従って、自分なりに手さぐりしていく。
・そうしてひとつの臨床理論とおまじないにも似た技法体系ができてくる。これは、臨床家という百姓には宿命的なもののように思われる。
5)新しい見方
・われわれは、従来の標準的な言語病理学的方法だけにとらわれることなく、子どもの発達を、①言語能力以外の面もすべて含んだひとつの輪郭として見ること、②子どもだけに焦点を合わせるのではなく、子どもとまわりの人や物との相互関係の変遷としてとらえることを心がけてきた。そして乳児期を中心とした生後2年間の発達にとくに関心をもって見てきた。
・そうしているうちに、以前には思いも及ばなかった、ひとつの新しい見方が芽生えてきた。それは、新生児期にさかのぼって、とくに乳児期の母子の間の人間関係の成立と発展に焦点を当て、その人間関係がその後の模倣、言語の習得、人格形成などに及ぼす影響の重要性などに着目して、言語発達と言語臨床を眺め直すという見方である。
・そういう見方は、以下のような過程を経て、(有意義に)形成されてきたと思われる。
①「言語発達質問紙」(花上ら)を繰り返し眺めてきたこと。
②乳児期を中心とした、子どもの発達や母子の相互反応の変遷について、数多くの論文(増井、白井、小林、松田、幸田、小野、馬場、荻尾など)、児童学科浅見教授研究室関係の著書・論文、小嶋謙四郎教授の著書などから学んだこと。
③山浦、伊東の“指さし行動”と“提示行為”についての研究、富岡、神のふしぎな行動をもつ子どもについての臨床的研究から、大きな示唆を与えられ、学んだこと。
④サルの隔離飼育に関する実験的事実の紹介を受け、大きな刺激を受けたこと。
⑤松村教授、津守教授はじめ児童学科の先生方の教えを受けた、研究室の仲間(臨床家)たちがいたこと。
・しかし、この本に盛られていることはまだ著しく不完全で、至るところに不備や誤りがあるだろう。それらは、すべてこの本の編者と執筆者だけの責任である。


【感想】
 以上が、1章の前半である。この本が刊行されたのは昭和49年だが、私はその3年前(昭和46年)に聴講生として著者(田口恒夫教授)の講義「言語障害治療学」を受けていた。その内容は、ここで述べられている「従来の考え方とやり方」の詳説であったが、著者は、構音障害、術後口蓋裂の声門破裂音、吃音、聴覚障害、発語器官の運動障害(脳性まひ)などの「症例」(発音の異常)の実態を、自身で「再現」して見せた。まさに「迫真の演技」と言えば、無礼千万・不謹慎きわまりないものの、その透徹した「洞察力」に深い感銘をおぼえたのであった。
 したがって、著者は、「従来の考え方とやり方」をふりかえり「ざっとこんなぐあいである」と述べているが、それは「痛烈な自己批判」(自戒)であることを、私は知っている。今もなお、親や家族から「どういうことですか、どうすればいいのですか、助けて下さい」と訴えられ〈やむにやまれず、知らないことまで教えようとする。教えているうちに、自分自身がしだいに暗示にかかる。そして誰よりも先にその教えを身につけ、それを信じ、自分が本来知らなかったことを忘れていく。“わからないこと”を“わかっていないこと”だとしておく代わりに、わかっていないことの一面をとらえてそれにわからない名まえをつけ、「その名まえの意味していることがらの結果であることがわかってきた」と言い変えるのである〉といった臨床家(専門家)は、枚挙に暇がないほどである。《自閉症の原因はわからない。しかし、脳の障害(認知障害)が「強く推測」される。したがって、認知の発達を促進すれば自閉症が改善されることがわかってきた》(「自閉症治療の到達点」太田昌孝・永井洋子)という「物言い」は、その代表例ではないだろうか、と私は思ったのである。(2014.4.8)