梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

童話「焼かれた魚」(小熊秀雄)の思い出

 詩人・小熊秀雄の作物に、「焼かれた魚」という童話があることを御存知だろうか。その内容は、およそ子ども向けの話としては「ふさわしくない」といおうか、何とも「悲しく」「寂しく」「絶望的な」雰囲気を漂わせている。主人公は、ある家庭の台所で、今、焼かれたばかりのサンマ一尾、いかにも美味しそうな様子で、皿の上に乗っている。それを「頂戴しよう」と狙っている飼い猫の三毛ちゃんに、サンマが話しかける。「私は海に帰りたい。私をくわえて、海まで連れて行ってくれませんか」。猫が応える。「ただでは御免。あなたの美味しそうなほっぺたの肉を食べさせてくれたら、運んであげましょう」かくて交渉成立。三毛ちゃんはサンマをくわえて「脱兎の如く」走り出すが、橋のところで立ち止まり、ほっぺたの肉をぺろりと平らげると遁走、以下同様に、ネズミ、犬、カラスが順繰りに登場、そのたびにサンマは自分の「血肉」を提供、最後は「目玉」まで投資して、やっとこさ波の音が聞こえる草原の丘までたどり着いたときには「骨だけの身」になってしまった。でも、最後には「アリの集団」(兵隊さん)が登場、今度は「無償で」海まで運んでくれたというお話。ようやく、恋しい海の中に戻れたサンマ、うれしさ、懐かしさのあまり、全身をバタバタとさせて泳ぎまくるが、「骨だけの身」となった悲しさ、全く自由がきかない。最後は、波打ち際に「打ち上げられて」砂に埋もれてしまう。どう考えても「めでたし、めでたし」という終幕ではない。詩人・小熊秀雄は子どもたちに、どのようなメッセージを送りたかったのだろうか。
 今は昔、小学校の教員(助教諭)になったばかりの私は、こともあろうに、この童話「焼かれた魚」を「劇仕立て」にして発表(学芸会)したことがある。学年は4年生、3クラス合同(総勢約120名)で「役割分担」した。主人公のサンマは、「張りぼての置物」、舞台中央に(かなり大きく)「でんと」据えられ、背景は「人文字」で「お皿の絵」、運び屋の「猫」「ネズミ」「犬」「カラス」「アリたち」は、すべてパントマイマー、他に「台詞担当」(声優)、「音楽担当」(合奏)という陣容で、「運び屋」(猫・ネズミ・犬・カラス)が登場して、「駆け出す」たびに、移動の音楽、そのリズム・メロディーにあわせて「背景」(人文字)が揺れ動く。「運び屋」が「思惑あって一息」(休止)の時はストップモーション、背景は、いつのまにか「皿」から「橋の上」に移動・・・、同時に、「張りぼてのサンマ」は徐々に「肉」(模造紙の紙)をはぎ取られて「骨」(の絵)が露出してくる、おしまいは「目玉」(銀紙のボール紙)までくり抜かれてカラスの首飾りになってしまった、などといった趣向で筋書は展開、その場の空気に逢わせて「背景」の模様も刻々と変化する(例えば緑と黄色の市松模様、赤と黄色の市松模様、青と黒の市松模様)。終末、サンマが海の中を泳ぎまくる場面では、あの「ハンガリア狂詩曲第2番」(リスト作曲)の悲壮なメロディが鳴り響くうちに「暗転」終幕となったが、明るくなった客席では、目頭を押さえている「おばあちゃん」が何人もいたとか・・・。
今は昔、捨てきれぬ「煩悩譚」(年寄りの自慢話)のお粗末を御容赦あれ。
(2009.11.7)