梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本の伝統」(岡本太郎・光文社・2005年)・《「庭論」の魅力》

  「日本の伝統」(岡本太郎・光文社・2005年)を読んだ。巻末の〔編集部〕によれば、〈本書は『日本の伝統』(光文社・1956年刊)に「伝統論の新しい展開」(角川文庫版および講談社現代新書版には収録済み)を加えて、再編集のうえ文庫化したものです〉とのこと、50年以上も前の作物だが、たいそう面白かった。岡本太郎の主張は「講談社現代新書版 はじめに」の冒頭で、以下の通り明解に述べられていた。〈伝統とは何か。それを問うことは己の存在の根源を掘りおこし、つかみとる作業です。とかく人は伝統を過去のものとして懐かしみ、味わうことで終わってしまいます。私はそれには大反対です。伝統・・・それはむしろ対決すべき己の敵であり、また己自身でもある。そういう激しい精神で捉えかえすべきだと考えます。過去といっても、過ぎ去り、すべて終わってしまったものではない。自分の責任において創造的に見かえすべきモメントなのです。自分の全存在で挑み、新しくひらくものです。過去は自分が創るのです。ちょっと異様な発言に聞こえるかもしれませんが、そのようにして瞬間々々に創られていく過去だけが、生きて、伝統になるのだと私は思っています〉。なるほど、「過去は自分が創る」という発言は、異様の極み、そんなことができるはずはない、と思うのは凡人(私)の浅はかさ、岡本太郎は、それまで見向きもされなかった「縄文土器」の素晴らしさを「つかみとる作業」に従事、〈私の発言がきっかけになって、縄文の美を認める人がどんどんふえてきました。私の感動、情熱が、それまで多くの人々の心の奥深くにひそんではいたが、自覚されなかったものを引き出したのだと思います。縄文は日本の誇るべき原始芸術として定着し、今日では美術史の本などでも、弥生よりもずっと大きく鮮やかに扱われるようになったのです〉とのこと、「伝統(過去)は自分が創る」という彼の主張を心底から納得することができた。本書で岡本太郎が取り上げた「日本の伝統」は、縄文土器(民族の生命力)、光琳(非情の伝統)、中世の庭(矛盾の技術)であった。私自身、「美術」系の鑑賞能力は皆無、縄文土器や光琳の作品を観ても、「猫に小判」「暖簾に腕押し」といった按配だが、「庭」の風情を感じとることは「まだまし」かもしれない。巻末の解説で、岡本敏子(岡本太郎記念館館長)以下のように述べている。〈(前略)縄文土器論が日本の歴史の見方を一変させたのに比べて、庭論はそれほど一般に浸透していない。第一、一般の人はしみじみ庭を見る機会なんて少ないし、これだけ細やかにシャープに解き明かされても、実感をもって受けとめる人がほとんどいないのだ。だから、この爆弾はまだ不発のまま地に埋もれている。しかしこの中には、人間が芸術的に自然にかかわる叡智、哲学と方法論、現代に生かし得る技術が圧縮されている。誰かが火をつければ・・・。〉では、さしあたって、彼の「庭論」を学んでみたい。①京都・大徳寺(弧蓬庵の飛石、大仙院の枯山水)、②京都・竜安寺(雨落ちの小溝、石庭)、③京都・本法寺(「日蓮」をもじったといわれる庭)、④京都・金閣寺(竜門滝、飛石)⑤京都・二条城(石垣)、⑥京都・銀閣寺(銀沙灘)、⑦京都・西芳寺(黄金池の夜泊石、池畔の窪み、洪隠山の枯滝、須弥山の石組み)⑧京都・妙心寺(退蔵院の庭)、⑨奈良・当麻寺(中の坊の庭)等々、ぜひとも訪れて、岡本太郎が埋め込んだ爆弾に火を点けてみようか、といった身の程知らずの衝動にかられたまま、本を閉じた次第である。(2010.9.15)