梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「嘱託殺人」・司法(横浜地裁)の判断は間違っていないか?

 東京新聞朝刊(31面)に「嘱託殺人 夫に猶予判決 横浜地裁『苦悩の深さ、同情』」という見出しの記事が載っている。〈難病の長男の命を絶った苦しみから「死なせて」と懇願した妻=当時(65)=を殺害したとして、嘱託殺人罪に問われた神奈川県相模原市、運転手S被告(66)の判決公判が5日、横浜地裁であり、川口政明裁判長は「苦悩、葛藤、悲しみの深さは余人の想像の及ぶところではなく、大いに同情の余地がある」として、懲役3年、執行猶予5年(求刑懲役3年)を言い渡した。川口裁判長は、S被告が励まし続けた妻の自殺願望を変えられなかったことに触れ、「負い目と無力感を感じ、自らの手で死なせてやろうと思うに至った」と指摘。判決言い渡し後「難病患者の家族は、苦しみながら一生懸命生きようとしている。命の大事さを軽んじることなく生きてほしい」と説諭した〉とのことであるが、私はこの判決に納得できない。その理由①、「苦悩、葛藤、悲しみの深さは余人の想像の及ぶところではなく、大いに同情の余地がある」とは何事か。裁判長は本当に被告の心情を理解しているつもりか。「余人の想像の及ぶところではなく」といいながら 「同情の余地がある」という思い上がりは許せない。裁判長は、ただひとり被告の心情を共感できるとでもいうのか。その理由②、もし「同情の余地がある」のなら、なにゆえ懲役3年(執行猶予5年)という「有罪判決」を下したか。理由は何であれ「殺人」は「殺人」、本来なら実刑に服すべきところだが、「温情」によって「執行猶予」にする、といったあたりが本音だろうが、いかにも「専門家風」で鼻持ちならない。「大いに同情の余地がある」などは「全くの口実」、実を言えば「本官の身の保全」が第一、間違っても「無罪判決」など下せるわけがない。なぜなら、いまだかつてそのような「判例」は皆無だからである。その理由③、懲役3年(執行猶予5年)という量刑は、被告の妻に科せられた内容と「全く同じ」、この事件(悲劇の連鎖)の素因となった妻への処遇(嘱託殺人罪)を、「事務的」「機械的」に繰り返しているだけである。もし、妻に対する判決が「無罪」であったなら・・・、ということを考えたことがあるか。新聞記事(後半)によれば、裁判長が語りかけたそうである。「気持ちが折れることがあるかもしれないが、同じことを繰り返してはいけない」だと。何をかいわんや、その言葉はおのれに向かって言い聞かせるべき内容であろう。加えて、検察官もまた尋ねていわく「もう自殺をする気はないか」だと。その無神経さ、非人間的な対応には絶句するほかはない。いったい、自分を何様だと思っているのか。被告が自殺する、しないは「全くの自由」、そのような質問を投げかけること自体、「基本的人権の侵害である」。かくて「大いに同情の余地がある」といった司法の言辞が「全くの嘘っぱち」であることが証明されたのである。
 「嘱託殺人」(安楽死・尊厳死)は有罪か、無罪か、その事例(実態)によって判断が異なることは言うまでも無いが、これまでに「無罪」となった判例は「皆無」、いずれも「執行猶予」で「収めよう」とする安易さはないか。この事件(悲劇の連鎖)の発端は、妻の「嘱託殺人」に対する有罪判決であり、それが引き金となって夫の「嘱託殺人」が誘発されたことは間違いない。司法の判断は間違っていなかったか。その間違いを繰り返していないか。「大いに反省する余地がある」、と私は思う。(2010.3.6)