梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

人間が終息を迎えるときはどうしたらよいか

 東京新聞朝刊「発言」欄(5面)に「人生の最期 あり方に悩む」という見出しの記事が載っている。投稿者は、会社員・平林芳子氏(68)・(東京都大田区)との由。その内容は以下の通りであった。〈義父が脳梗塞で入院し3年9カ月が過ぎました。食事は介護が必要ですが自力でのみ込むことができ、今日まできました。私も時々手伝うと「うまい」と言ってくれ、配膳係の方から「良かったね」と声を掛けられていました。しかしここにきて、のみ込みが悪く食事が進まなくなりました。今後は点滴を続け老衰を待つか、胃ろうで食事をとるか、担当の先生から「どうされますか」と聞かれました。私は何と答えてよいのか戸惑いました。身内としては、少しでも長く義父の顔を見たい。義父が病院に居るということが、私たちへの無言の励みに思えるのです。人間が終息を迎えるときはどうしてあげたら一番いいのか本当に悩みます〉。私は今年67歳、筆者とは同年代なので、一言、感想を申し上げたい。私の実父は30余年前、68歳で胃ガンのため病死した。食事は自力で摂り、それが叶わなくなった時点で点滴に切り替え、自然死を待った。排泄も死の一週間前まで、自力で行っていた。60㌔あった体重は30㌔台まで減少、その様子を見て、私は「少しでも長く父の顔を見たい」とは思わなかった。人間、死ぬときが来れば死ぬ、今さらジタバタしたってはじまらない、いたずらに延命を図ったところで、本人の苦痛が長引くだけではないか、と思っていた。したがって、私は父の最期に関して「悩む」ことは皆無であった。臨終の瞬間、「よかった。父はほとんど苦しまずに逝くことができたのだから」と安堵したのである。筆者の平林氏に比べて、私はなんと冷酷無情な人間なのだろうか。そのことを承知のうえで聞いていただければ「人間が終息を迎えるときはどうしてあげたら一番いいのか」、御本人の希望を「最優先」することが鉄則だと、私は思う。もし、その希望が確認できない事態に陥ってしまったとしたら、医師の怠慢、看護者の無分別と言われても仕方がない。「後悔は先に立たない」のである。
(2011.5.26)