梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「社会の木鐸」とは無縁・《「民放連」の惨状》

 東京新聞朝刊芸能欄(14面)に、「民放連会長 総務相発言に疑問」という見出しで以下の記事が載っている。〈民放連の広瀬道貞会長(テレビ朝日相談役)は21日の定例会見で、小沢一郎民主党幹事長の元秘書らが逮捕された事件をめぐり、情報源を「関係者」とする報道を「不適だ」とした原口一博総務相の発言について「(捜査の)渦中でもある時期に言う必要があったのかどうか」と疑問を呈した。広瀬会長は「取材源の秘匿は当然のこと。名前を出せればいいに決まっているが、出せない場合もままある」と説明。(中略)原口総務相は19日の記者会見で、情報源を「関係者によると」とする報道が多いことを取り上げ、「何の関係者か分からない。そこを明確にしなければ、電波という公共のものを使ってやるには不適だ」と述べた。〉この記事を読んで、私は広瀬会長が「取材源の秘匿は当然」と言いながら、一方では「名前を出せればいいに決まっている」と正反対の言辞を弄していることに疑問を持った。「出せない場合もままある」とは、どういうことか。秘匿を条件にした情報提供が「当然」なら、「名前を出さない方がいいに決まっている」のではないか。発信源が「はっきりしない」情報を「ガセネタ」(怪情報)という。情報源が「関係者」だけでは、「はっきりしない」ことは明らか、総務相が「公共の電波を使って(「ガセネタ」かもしれない情報提供を)やるのは不適だ」と述べたことこそ「当然だ」、と私は思う。もともと、秘匿を条件にした情報提供など「信ずる」に値しない。昨今のテレビ番組では、画像にモザイクを掛け、音声を変質させて放映する「報道」が蔓延しているが、番組制作者の魂胆が見え透いていて「醜悪」だ。要するに、いやがる情報提供者に「金をつかませて」、無理矢理「引っ張り出した」情報に過ぎないのである。民放連会長の言う「(名前を)出せない場合」の具体例であろう。そこまでして、情報を売らなければならない(視聴率を稼がなければならない)「民放連」の惨状は「目を覆うばかり」、もはや「社会の木鐸」とは無縁の存在になり果てているのである。
(2010.1.22)