梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

映画「素晴らしき日曜日」(監督・黒澤明・1947年)

 ユーチューブで映画「素晴らしき日曜日」(監督・黒澤明・1947年)を観た。敗戦直後の東京を舞台に、ある日曜日、貧しい恋人同士が(週1回の)ランデブー(今で言うデート)を楽しむはずであったのだが・・・。新宿の街頭で待つ男、満員の省線電車を飛び降りて男のもとに駆け寄る女、二人は顔を見合わせてニッコリするはずだったが、なぜか男の態度はそっけない。それというのも、男のポケットには15円(今の価格で1500円程度)しかない。落ちていたたばこの吸い殻(いわゆるシケモク)を拾ったその時に、彼女が現れてしまったからだ。情けない姿を見られてしまった、という恥ずかしさからか。「すみません、遅くなって」と謝る女に「来ない方がよかったのに・・」という男。そうした白けた空気のまま一日が始まった。以下の「あらすじ」をウィキペディア百科事典から引用する。
 〈1947年2月16日の日曜日、戦争の傷跡が残る東京。会社員の雄造と昌子のカップルは休日の毎週日曜日にデートをするが、手持金は35円(現在の貨幣価値に換算すると、約3,500円)しかない。一緒に住むこともままならなかった2人は住宅展示場を見学するが、10万円の家は高嶺の花である。二人でも借りられそうなアパートを訪ねるも無駄骨だった。子供の野球に飛び入りすると、雄造の打ったボールが饅頭屋に飛び込み、損害賠償を払わされる。次に雄造は戦友が経営するキャバレーを訪ねるが、物乞いと勘違いされ相手にしてもらえない。途中、雨が降るが、昌子の提案で日比谷公会堂に「未完成交響楽」を聴きに行くことにする。しかし、安い切符はダフ屋が買い占め、抗議した雄造は袋叩きにされてしまう。雄造は昌子を自分の下宿に連れて行き、彼女の体を求める。怖れた昌子は部屋を飛び出すが、やがて観念したように戻ってきて、泣きながらレインコートを脱ぎはじめる。心を打たれた雄造は「ばかだな、いいんだよ」と、昌子をいたわり詫びる。
雨がやみ、再び街に出た2人は喫茶店を開く夢を語り合う。そして日比谷野外音楽堂に足を運び、雄造はオーケストラの指揮の真似をして昌子に「未完成交響楽」を聞かせようとする。しかし、いくらタクトを振っても曲は聞こえない。すると昌子はステージに駆け上がり、客席に向かって叫ぶ。「皆さん、お願いです! どうか拍手をしてやって下さい!」この言葉に励まされた雄造が再びタクトを振ると、『未完成交響楽』が高らかに鳴り響くのだった。〉
 配役は雄造に沼崎勲、昌子に中北千枝子、二人とも「新人」だ。脇役は、渡辺篤、中村是好、菅井一郎、清水将夫らのベテラン陣で固めているが、主役同士はどこかぎこちない。その風情がたまらなく新鮮で魅力的であった。
 雄造の性格は生真面目、軍隊生活も律儀に務めたと思われるが、戦後の混迷期では通用せず、貧乏くじを引いてばかりいる。戦争前に二人で抱いた夢、それは小さな喫茶店を開くことであったが、こんな調子では当分かないそうもない。ややもすれば自暴自棄になるところを、昌子が必死に食い止める。しかし、二人とも「戦後」に希望を抱いた若者ではないことが興味深かった。戦前の社会に適応していた者は、戦後の社会に絶望する。瀬川という戦友は「銃器の手入れができずに殴られてばかりいたが、戦後は羽振りをきかせてキャバレーの社長に成り上がった」という雄造の述懐が興味深かった。彼は戦争によって何もかも失ったのである。そこから立ち直れるか否か、最後は昌子が「観客」に直接呼びかける、異色のクライマックスが待っている。
 戦後期の「絶望」を描いたという点では、あのイタリアン・ネオ・リアリズムとも重なる。「絶望」する雄造を「励ましてください。拍手をください」と必死に懇願する昌子の姿が印象的であった。
 黒澤監督は、この作品を「失敗作だった」と評したそうだが、どうしてどうして、日本のネオ・リアリズムとして立派に通用する佳作だと、私は思った。 
(2020.11.22)

「コロナ 専門家への疑問の声」

 東京新聞11月21日付け朝刊(25面)に「週刊ネットで何が・・・」(ニュースサイト編集者・中川淳一郎)という記事がある。今日の見出しは「コロナ 専門家への疑問の声」であった。〈新型コロナの「第3波」が来たと専門家が述べているが、ネット上では、専門家に対する疑問の声が多数書き込まれている。〉という書き出しで、要するに、新型コロナウィルスに関する様々な「見解の相違」を、手際よく紹介している。
■「コロナは大変なウィルス」派VS「コロナはたいしたことない」派
■「何が何でもマスクをしましょう」派VS「マスクは必要な人(医療従事者や風邪症状の人)が必要な時に」つければよい」派
▲「マスク会食」(専門家の提言)VS「飲食時のマスク着用などザル」(高山義浩医師)


■「高齢者にうつすと大変だから若者は自粛せよ」派VS「現役世代は経済を回すべく積極的に動き、むしろ自粛すべきは高齢者」派  
■「致死率は低いのだからもう気にしなくていい」派VS「海外ではひどい状態。後遺症が残る人も多いから最大限きをつけるべきだ」派
▲「緊急事態宣言を出さないでほしい」(飲食店)VS「何でこの半年で転職しない?どう考えてもコロナ出てきたら」続けられない業種だろ」
 まさに「何が何だかわからない」有様で、国民(私)は途方に暮れる他はないが、筆者の中川氏は、「専門家」の慎重派は、福島原発事故の際の「楽観論」がバッシングを受けたことに影響され、「専門家の間には最悪の事態を想定した論を述べなくてはまずい」という考えが広がったのではないか、と結んでいる。だとすれば、専門家は「肩書き」だけで「世渡りをしようとしている」に過ぎず、全く当てにならない連中ということになる。多種多様な見解が取り沙汰されることは「民主的」かもしれないが、「いつまでたっても一つに決められない」(真理を見極められない)幼稚さ・未熟さもつくまとう。今も、日本の社会は、「一億総マスク」現象を呈しているが、それは「一億総未熟化」現象が露呈した結果ではないかと、私は思う。
(2020.11.21)

《コロナ死を数える日々に紅葉散る》

 ほぼ1週間前、私はコロナ禍「第三波」の実態を把握する観点として、陽性率(陽性者数÷検査実施人数)、発症率(要入院治療者数÷陽性者数)、重症化率(重症者数÷要入院治療者数)、致死率(死亡者数÷陽性者数)の《推移》を見ることが肝要であると書いた。
 その時(11月7日)の数値は次の通りだ。
■11月7日:陽性率3.7% 発症率7.1% 重症化率2.5% 致死率1.7%
この数値が、1週間でどのように推移したか。
■11月8日:陽性率3.7% 発症率7.4% 重症化率2.4% 致死率1.6%
■11月9日:陽性率3.7% 発症率7.8% 重症化率2.4% 致死率1.6%
■11月10日:陽性率3.7% 発症率8.1% 重症化率2.3% 致死率1.6%
■11月11日:陽性率3.7% 発症率8.7% 重症化率2.3% 致死率1.6%
■11月12日:陽性率3.7% 発症率8.7% 重症化率2.3% 致死率1.6%
■11月13日:陽性率3.7% 発症率9.1% 重症化率2.2% 致死率1.6%
■11月14日:陽性率3.8% 発症率9.6% 重症化率2.1% 致死率1.6%
 これを見れば一目瞭然、陽性者は微増、発症者は急増しているが、重症者は減少、死亡者(致死率)は増えていない。それが「第三波」の《実態》であることがわかる。  
 巷間では「感染者が急増」していることを憂いているが、今のところ、「第一波」「第二波」に比べて、重症者、死亡者は少なく収まるだろうと「予測」できる。
  心を鎮めて一句、《コロナ死を数える日々に紅葉散る》。
(2020.11.15)