梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・フライトレコード(6)

    コッカイギジドウマエの次はアカサカミツケである。そこにボクのコドモが後向きで立っていた。ボクはあしたの二時までに「家」に帰らねばならない筈だ。ボクは帰ることができるだろうか。くだらないと思います。坊や元気を出そうね。ボクのコドモはふりかえらずつぶやいた。気をつけ、礼。歌は二度とうたうまい。涙でサン・グラスがくもったと思ったのはやはり思いちがいで、「おでき」のために眼がかすんだんだ。ボクはどこにいるのでしょうか。地下鉄の中は、ゆでたまごの臭いがして吐き気がした。洗面器をかしてください。コドモのためにも吐かねばならぬ。生活とは、あるいは愛とは、知ることだ。そして知ってしまった哀しみに耐えることだ。恥ずかしいんだよ。コドモは生活しない。コドモは愛さない。ボクはボクのコドモを恥じる筈だ。もう女の子と会えない。会わない。バカバカしいんだ。地下鉄のお嬢さんを犯せ。ある晴れた日、そのしみわたるような青い空に向かって涙を流したんだ。それがはじまりといえばはじまりだったし、終わりといえば終わりだった。消えた。おそろしいんだよ。ジェット・ヒコーキの空中分解はボクの責任ではない。シンジュクで地下鉄をおりて、コーヒーをのんだ。夜は白々とあけなければならない。待っているのではありません。何もないのだ。それゆえ、残念ながらビートのきいたリズムは、時計でしかない。この町に住みついた生活の入り口で、おそらくボクは体を張ってやがてくる夜明けとたたかうのだろう。いけない。夜が明けてきやがった。
(1966.5.5)

「東京新聞」の《欠陥》記事

 「東京新聞」朝刊(23面)に「首切られ女性死亡 茨城のコンビニ駐車場」という見出しの記事が載っている。その全文は以下の通りだ。
〈11日午後7時20分ごろ、茨城県常陸太田市河合町のコンビニ駐車場付近で、女性が何者かに刃物のようなもので首を切りつけられた。女性は病院で死亡が確認された。県警は、身元の確認を急ぐとともに、現場にいた男が何らかの事情を知っているとみて話を聴き、殺人事件として捜査している。県警によると、別の男性が「女性が首を刺されている」と太田署に通報した。現場は、JR水郡線河合駅から北東に約500メートルの田畑が広がる地域。〉
 この記事の特徴は、事件の時刻、場所は「きわめて明確に」示されているのに、登場する人物像は「杳として定かではない」点である。せいぜい被害者の女性が一人、通報者の男性が一人、事情を聞かれている男性が一人という「人数」しかわからない。なぜか。現在「捜査中」だから詳細は明かせない。「個人情報」だから、それ以上は明かせない。ということだろうが、では、東京新聞は、この記事で何を読者に伝えたいのだろうか。いつ(11日の午後7時20分頃)、どこ(常陸太田市河合町のコンビニ駐車場)で、「殺人事件があった」ということは伝わるが、それ以上のことはわからない。読者は、その情報から何を受け取るべきなのだろうか。「こわい!」「そこに近づくのはよそう」「コンビニでは気をつけよう」。いずれにせよ、すでに参考人が事情聴取を受けているのだから、付近に犯人が潜伏しているとは思えない。だとすれば、せいぜい「こんな場所で」といったショック(恐怖)感ぐらいではないだろうか。
 最近は、このような「不安感」だけを煽る(欠陥)記事がまん延しているように、私は感じる。コロナに関する記事も然り・・・。「よくわからないこと」を「よくわからないこと」として伝えることは、「伝えない」ことと同じであることを、報道関係者は肝銘すべきである。
(2021.8.12)

小説・フライトレコード(5)

 ボクはどこへ行ってしまったと思っていたら、結局友達の部屋で男の子と寝ていた。絶望をかきわけかきわけ生きることのたのしさよ、とかなんとか寝言をつぶやきながら。みじめったらない。女の子は生活の臭いがしていようといまいと嫌いだ。おかあさん。今日も暮れゆく故国の町に、友よさむかろさみしかろ。嘘つけ。男の子と寝ていたのは、やっぱりボクではなくて、女の子だったんだ。わからない。ボクが寝言などつぶやくはずがない。耳のうしろがジーンとなるのは「おでき」のせいだ。病気。ボクは、たしか健康だった。ジリジリと電話が鳴って、女の子の声がした。あなたを殺したいんです。とてもうれしいけどわからねえな。そんな告白をしたってあなたを殺せやしないのに。あなたって誰ですか。あなたよ。退屈だ。きっと「おでき」がささやいたんだ。頭痛がするのもそのためだ。きっときっと生きて帰ってきてね。町の食堂で兵隊さんがタンメンをたべているなんて、事実だ。ドッキリドッキリ心臓がひびいて、頭がクラクラした。おい。その後ろにボクがいたんだ。びっくりしたなあ、もう。本当にボクがいたのでしょうか。あのボクが、そしてこのボクが。ボクって誰ですか。誰なのですか。電話だ。ジリジリジリ。もしもし、アカサカミツケまで来てください。いやです。何ですって。いやなんです。遠いんです、もう一度。いやです。わからないなあ、どうしてですか。遠いんです。もしもし、聞こえますか。聞こえませんよ。電話だ。おいしいですか、タンメン。食堂を出たとき、夜になった。元気をだそう。
(1966.5.5)