梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・フライトレコード(5)

 ボクはどこへ行ってしまったと思っていたら、結局友達の部屋で男の子と寝ていた。絶望をかきわけかきわけ生きることのたのしさよ、とかなんとか寝言をつぶやきながら。みじめったらない。女の子は生活の臭いがしていようといまいと嫌いだ。おかあさん。今日も暮れゆく故国の町に、友よさむかろさみしかろ。嘘つけ。男の子と寝ていたのは、やっぱりボクではなくて、女の子だったんだ。わからない。ボクが寝言などつぶやくはずがない。耳のうしろがジーンとなるのは「おでき」のせいだ。病気。ボクは、たしか健康だった。ジリジリと電話が鳴って、女の子の声がした。あなたを殺したいんです。とてもうれしいけどわからねえな。そんな告白をしたってあなたを殺せやしないのに。あなたって誰ですか。あなたよ。退屈だ。きっと「おでき」がささやいたんだ。頭痛がするのもそのためだ。きっときっと生きて帰ってきてね。町の食堂で兵隊さんがタンメンをたべているなんて、事実だ。ドッキリドッキリ心臓がひびいて、頭がクラクラした。おい。その後ろにボクがいたんだ。びっくりしたなあ、もう。本当にボクがいたのでしょうか。あのボクが、そしてこのボクが。ボクって誰ですか。誰なのですか。電話だ。ジリジリジリ。もしもし、アカサカミツケまで来てください。いやです。何ですって。いやなんです。遠いんです、もう一度。いやです。わからないなあ、どうしてですか。遠いんです。もしもし、聞こえますか。聞こえませんよ。電話だ。おいしいですか、タンメン。食堂を出たとき、夜になった。元気をだそう。
(1966.5.5)

小説・フライトレコード(4)

    ボクはどこにいるのだろう。探さなければならない。フワフワヒラヒラ。雨やむな。トウキョウの上。アヴァヴ・ザ・トウキョウ。電車の屋根が濡れて光った。お嬢さんがコビトになって先生を抱いたまま森の方に歩いて行った。先生、どこに行くのですか。ボクを知りませんか。森へ行こう。森の上。眼をつぶってフワリと、雨のしずくがベンチにおりた。「喜劇」を「悲劇」に転化すること、それはずっと昔のボクの使命だった。死をそのための座標軸としなければならない。思想くそくらえ。お嬢さん、先生を知りませんか。食べてしまったのよ。ボクを知りませんか。捨てたわ。あいかわらずじゃねえか。相変わらず、生きなければならない。センセー。傘がヒラヒラ花のように動いた。森の中。雨ふれ。雨の中を、戦車が行進して来た。戦車、たたかうくるま。おかしいな。たたかうのはヒトですか、くるまですか。たたかうためのくるま、戦車。たたかうべきくるま、戦車。カブトムシのたたかいにアリは関係ない。どこに行くのでしょう、戦車。車庫に入るんじゃねえのか。たたかわないくるま、戦車。舌を咬まれそこが痛いので、タバコが吸えなかった。ひとり孤独です。森の中。雨がふっていた。吉兆ではありません。ソヨロソヨロとなまあたたかい風が吹いて、雨があがった。くもり。ああとうめいて溜息をついたんだ。
(1966.5.5)

小説・フライトレコード(3)

    お嬢さんの話をすると、太陽が黄色くなってボクの胸はやけただれ、心臓が止まったはずだ。死んだら、生きなければならない。どこにいるのかボク、だれかボクを知らないか、という歌は賛歌だ。アカサカミツケにいたのはボクではないのですか。そこはボクの消えた場所で、いた場所ではない。おかしいなあ。ボクって誰ですか。そんなことわかる筈ないし、わからなければならない。もう寝ましょうよ。靴。それは興味ある問題だ。ああ恥ずかしいなあ。恥ずかしいんだよ。「喜劇」とは男と女による例の退屈な物語もしくは事実に他ならない。トウキョウ。そこで地下鉄をおりて、階段をのぼった。耳のうしろがジーンと鳴ってフラフラしたけどかまわない。闇の世界なんて夢だ。フラフラフラ。空だ。青かったんだ。サン・グラスはちょっと重たいけれど、やむを得ない。ああきょうも生きているんだ。死ななければならない。死んでごらんなさい。それは生活のイロハ、すなわち喜劇役者の自明の理だ。そうだろうか。先生。そこに友達がいた。先生は友達だ。なんだ、そうでしたか。お嬢さんのことですか。お嬢さんは先生ではないのです。喜劇の主人公がたとえボクであっても、ボクは決してコメディアンではなかった筈だ。先生はコメディアンだろうか。コメディアンだ。何故なら第一、サン・グラスをかけていない。第二に娘のお嬢さんに抱かれた。第三にボクの先生だ。もうメンドウになってそこをかけ抜けたとき、トウキョウに雨がふった。これで健康が回復できるだろうか。ともかくも今まではそうだった。生かしも殺しもしない雨。天の恵みとはそうしたものにちがいない。はてしない循環を、肉体それ自体は繰り返すだろう。死にてえな。およしなさい。サン・グラスは不要だ。雨ふれ。眼をつぶると、フワリと宙に浮いてトウキョウの上にいた。
(1966.5.5)