梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・69

ロ 懸詞による表現美
(一)旋律美
 懸詞による表現美は、二つの点から考察できる。その一は、懸詞を契機とする思想展開の上から。その二は、展開された美の質的相違の上から。
 今、特定の音声をSとし、Sを媒介として喚起される概念をABとする時、概念の対比を次のような図形で表すことができる。


  A
S↗
 ↘
  B


二重過程による思想展開の形式の上からいえば、Aが喚起されて、次にBが喚起されるという形式を持つもの。これを懸詞による旋律美と呼ぶことにする。概念の喚起が、音楽の旋律的展開に類するものを形づくるからである。次に、AB両概念が同時的に喚起されるという形式を持つもの。これを懸詞による協和美と呼ぶことにする。二つの概念が、音楽における和声のような排列をつくるからである。以上は、形式上の差別だが、質的相違としては、展開された二つの概念の比率による美の感情価値である。これは二音の音程に比べることができるだろう。最初に、旋律的美について実例を挙げる。
● 霞たちこのめも(はる)の雪ふれば花なきさとも花ぞ散りける(「古今集」)
 「はる」はまず「張る」の意味によって「このめ」(木の芽)に接し、次に「春」の意味で「の雪」に続く。この「張る」「春」の二重過程によって展開された二つの想(イメージ)は、旋律的に流動して一首の美を形成している。
● ゆふづく夜(をぐら)の山に鳴く鹿のこえのうちにや秋やくるらん(「古今集」)
 「小暗し」「小倉山」の展開である。
● よそにのみ恋ひやわたらむしら山の(ゆき)見るべくもあらぬ我が身か(「古今集」) 「白山の雪」より「行き見るべくもあらぬ」への旋律的展開である。
● 春日野の雪まをわけておひでくる草の(はつかにみえし)君はも(「古今集」) 
 上の歌は「生ひ出来る草の如くはつかに見えし君」の意味ではなく、そのような比喩的、限定修飾的表現を超越し、もっと端的に、物見に見た女と、雪間の若菜を対照させたのである。平安朝人にとっては、雪間に若菜を見た喜びが、物見車の女をほの見て直ちに連想されたのだろう。「はつかに見えし」によって、上下に展開された思想の対比は極小であるが、作者は明らかに懸詞によってこれを対立させていると見るべきである。一首の興趣もまさにその点にあると思う。
● 川の瀬にたなびく玉もの(みがくれ)て人にしられぬ恋もする哉(「古今集」)
● 秋ぎりの(はるる)時なき心にはたちいのそらもおもほえなくに(同上)
● 風ふけば峯にわかるる白雲の(たえ)てつねなき君が心か(同上)
 この三首の懸詞は、みな抽象的意味と具象的意味の兼用であり、抽象的な意味においては、上接の句を包摂できず、単に下接の句に対してのみ論理的脈絡を有す。従って、懸詞を契機とする上句下句は、論理的脈絡を超越した連想によって相照応することができるのである。これらの懸詞は一語多義の用法と考えることは当たらない。むしろ、一語における多義を、意識的に分裂させ、対立させて、二語の価値で使用したと見ることで、懸詞の真意を理解することができるのである。錯綜の美は、まず個の差別的対立を必要条件とするといわれてい原理は、懸詞にも通じる。一語を契機とする二つの意味(A、B)の対立が鮮明であることによって、旋律美はいっそうその効果を発揮させることができるのである。そういう意味からいえば、この三首は、懸詞としての効果は少なく、技巧が顕著でないといえる。それは、後述する「滑稽美」の対蹠的な例と見ることができる。
【感想】
 ここでは、懸詞による「旋律美」について述べられている。旋律美とは、ある語によってAという概念が喚起され、次にBという概念が喚起されるという形式を持つものである。
● 霞たちこのめも(はる)の雪ふれば花なきさとも花ぞ散りける(紀貫之)
 この歌を例にとれば、まず「はる」によって木の芽が張る(膨らむ)という概念が喚起され、次に春の雪という概念が喚起されるということであろう。その時、木の芽が膨らむことと、春の雪が降ることとには論理的なつながりはない。著者はそれを「対立」という言葉で説明し、「錯綜の美は、まず個の差別的対立を必要条件とするといわれてい原理」を懸詞にも引用している。
 なるほど、これまでわからなかった「懸詞の主眼点」が少しずつ見えてきたような気がする。旋律とは、「音を横に結びつけて形成する音の線的つながり」、要するにメロディーのことであり、言語の美が「音楽の美」に深くかかわっていることがわかりかけてきた。
 次節は、協和美、いわば和音の美について述べられている。期待を込めて読み進めたい。 (2017.12.20)