梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・68

 文が思想の統一的表現であると考える時、それがどのような形式で表されるかは、国語の特質を考える上で極めて重要な問題である。
 懸詞を含む文の統一性がどのようなものであるかを明らかにすることによって、懸詞の表現における機能を明らかにしたい。
● 梓弓(はる)の山辺を越えくれば道をさりあへず花ぞちりける
 上は、末尾の「ける」という辞によって全体的に統一されているが、「梓弓はる」は「はるの山辺云々」に対しては連関を持たない。この一首が全体として統一された表現であるといえるのは、「ハル」という音声が、二重過程によって一方は「梓弓」に連なり、他方「の山辺」に接続するために保持される統一関係があるからである。「ハル」という音声を契機として喚起される二つの観念「張る」と「春」との間には、論理的関係を求めることは困難だから、「梓弓はるの山辺」という一つの連鎖は、論理を超越した一つの連想関係によって結ばれた統一的思想の表現であるということができる。ゆえに、もし、
● 秋風にあへずちりぬるもみぢばの(ゆくへさだめぬ)我ぞかなしき 
 において、「秋風にあへずちりぬるもみぢばの」を「ゆくへさだめぬ」の副詞的修飾語として解釈すれば、元来論理的関係では統一されていない文を、論理的統一に引き直して理解したのであって、懸詞を含む文としての正しい解釈とはいえない。正しくは「秋風に云々」は、主文に対しては「ゆくへさだめぬ」を契機とする連想格において解釈されなければならない。上のような、懸詞を含む文の語学的操作は、これらの文の正しい理解の足場になるだろう。懸詞は音声を契機とする連想だが、それは連歌俳諧において発達した観念連想とよき対照となる。例えば、
● むざんやな、甲の下のきりぎりす(松尾芭蕉)
 で、「むざんやな」は、作者の齋藤實盛に対する感慨の表現である。そして「甲の下のきりぎりす」は、作者が眼前に見た事実の叙述である。従って、上句は下句に対して論理的関係を持たない。ここでは作者の實盛に対する感慨と、甲の下のきりぎりすに対する情緒との間に感情的照応があり、そこに(論理的統一ではない)観念的統一があるのである。 懸詞は、連想格を導く契機となるが、一方から見れば、文の論理的脈絡を遮断する働きを持つ。一般の文では、その統一は辞の総括の機能によるが、懸詞は、その音声の兼用によって文の統一の中に組み込まれ、しかも一方その兼用で文の論理的脈絡と統一とを断ち切ろうとするのである。そこで、論理的脈略よりもさらに直接的な観念の響き合いを表現することができる。それは言語の論理性を絵画的表現に転換させる一つの技巧といえるだろう。
● 結手の滴ににごる山の井の(あかで)も人にわかれぬるかな(「古今集」)
● 足引の山した水のこがくれて(たぎつ)心をせきぞかねつる(同上)
● あさなあさな立つ河霧のそらにのみ(うきて)おもひのある世なりけり(同上)
● 山桜霞のまよりほのかにも(みてし)人こそこひしかりけれ(同上)
● 有明の(つれなく見えし)別より暁ばかりうきものはなし(同上)
● 吹きまよふ野風をさむみ秋萩の(うつりも行か)む人の心の(同上)
 以上の、懸詞を契機として展開した上接の句は、すべて主想に対して付合の関係に立つものと見ることができる。
 懸詞を含む文は、共通音声を媒材とする二重言語過程によって、連想的に統一されたものである。では、そのような表現形式が成立するための具体的根拠はどこのあるのだろうか。それは国語の性格の中にある。その一は、国語における多くの同音異義語の存在である。しかし、それも懸詞を成立させるために都合のよい国語の構造形式がなければ連想的展開を構成することは不可能だっただろう。その構造形式とは、国語の入子型構造形式である。
 [《{(a)b}c》・・・n]
 入子型構造形式の特質は、まず核子となるaと外皮となるnを両極とし、その中間にbc乃至mを包含するのである。そしてbc・・・mの排列は、bはaを内容として包摂し、cはaを包摂したbを内容として包摂し、順次包摂してついにnによって包摂されるという特殊な構造である。bのcに対する構造的連関は、包まれるものと、包むものとの関係だが、包まれるbは、同時にaを包む関係に立っているので、部分はあるものに対して部分であると同時に、他のものに対しては全体であるという意味的連関に立っている。このような入子型構造形式から抽出されるabc・・・nは、それ自身独立した個体としてよりも、むしろ内容を抽象した外殻と考えること相応しい。
 懸詞を含む文が、どのような意味で国語の変態的構造に属するかを見ると、
● (我せこが衣はる)《時》、
 のような表現においては「時」は「我せこが衣はる」全体を包摂して、論理的統一を形づくるのに対して、
● 我せこが衣(はるさめ)ふるごとにのべのみどりぞ色まさりける(「古今集」)
 のような場合においては「さめ」は「我せこが衣はる」全体を包摂できずに、わずかに「はる」だけを包摂できるに過ぎない。従って、「衣張る」という意味で包摂するのではなく「ハル」が「春」の意味に転換することによってはじめて下接の句に接することができるのである。こうして意味的には全く前後の句は遮断され、「ハル」は全く新しい思想展開の核子として、「さめ」以下に包摂される。これを図示するとつぎのようになる。
● {《(我せこが衣)(はる》さめ)}
{《(a)(b》c)}
 上の図は。常態ならば、abを包摂すべきcがbの一部だけを包摂していることを示している。「ハル」という音声だけがabcの連鎖を保っていることを示しているのである。しかし、このような変態的構造が成立するのは、「さめ」が「はる」を包摂して「はるさめ」という新しい語を構成するからであり、それが入子式構造形式に由来するものである。
● さ月山こずえを高み時鳥なくね(そらなる)こひもするかな(「古今集」)
 「こひもする」は上接の語全部を包摂できず、わずかに「そらなる」を修飾語として包摂するだけである。それは「そらなる」が上接の語に対する異なった概念を喚起するためである。
● とぶ鳥のこえもきこえぬおく山の(深き)心を人はしらなん(「古今集」)
● 秋ぎりの(はるる)時なき心にはたちいのそらもおもほえなくに(同上)
 上の例は、語の接続形式としては、常態的な入子構造を形づくることができるが、懸詞が上に対する場合と下に対する場合とでは、語の意味が相違し、従って、懸詞は文意の論理的脈絡を遮断していると見るべきである。
● 霞たちこのめも(はる)の雪ふれば花なきさとも花ぞ散りける(「古今集」)
 上の「このめもはる」に接続する助詞の「の」は、一般に体言を受けるので、上接の語全部を総括できず、わずかに「はる」のみを総括して体言「春」の概念を喚起することになるのである。これは、(「風寒き夜は」の「風寒き」が「夜」に包摂されることによって修飾格的位格を獲得し、「風寒き」が「は」に総括されることによって体言的語性に転換されるという)国語における一般的法則の変形であって、上の場合は、上接の語の一部「はる」のみが体言的に転換されたのである。
【感想】
 前回の感想で「以下を読み進めることで、懸詞の主眼点を理解できるようになることを期待したい」と書いたが、その主眼点が《少しだけ》わかったような気がする。
 要するに、懸詞を含む文の統一性とは「論理的」ではなく「観念的」だということである。「むざんやな甲の下のきりぎりす」という俳句を例にとれば、「むざんやな」は作者・芭蕉の實盛に対する感慨であり、「甲の下のきりぎりす」は芭蕉が今、目にしている情景の叙述である。この句には作者の「思い」と「情景」が二重写しになっており、上の句と下の句に論理的な関連はない。それはシャガールの絵のように、眼前の情景と、作者の「思い出」「想像」等が同じ画面に、同時に描出されているということであろうか。
 懸詞を含む和歌もまた同様に、その二重写しの趣を、理詰めではなく「観念的」に鑑賞しなければならないということかもしれない。その時、参考になるのが著者の提唱する、国語の特質、「入子型構造形式」であろう。
 「我せこが衣はるさめふるごとにのべのみどりぞ色まさりける」は古今集にある紀貫之の作品だが、この「はる」は「張る」という意味で「衣」とつながり、また「春」という意味で「さめ」につながるという二重構造になっている。そして「ハル」という音声のみが、「衣」「張る」(春)「雨」の連鎖を保っているということである。この時、我せこ(夫)の衣を洗い張りすることと、春雨が降るたびに野原の緑が鮮やかになっていくこととに、論理的な関連はないので、夫の衣を整える妻の営みと、深緑の(野原の)情景を二重写しの趣として味わうべきということだろうか。あるいは、夫を思う妻の心象風景として、野原の情景が描かれているということだろうか。
 著者のいう「懸詞は文意の論理的脈略を遮断している」と述べているが、それでは、この歌の主想は何か、歌意をどのように解釈すればよいかについては、今ひとつ、わからなかった。(2017.12.18)