梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・67

三 懸詞による美的表現
イ 懸詞の言語的特質
 懸詞とは一語で二語に兼用し、あるいは前句後句を一語で二つの意味を連鎖する修辞学上の名称である。
● 花の色はうつりにけりな徒にわが身世に(ふる)(ながめ)せしまに(「古今集」)
 「ふる」は「経る」「降る」の二語に、「ながめ」は「詠め」「長雨」の二語に兼用したものである。
● 梓弓(はる)の山辺を越えくれば道もさりあへず花ぞちりける(「同上」)
「はる」は梓弓に対しては「張る」、山辺に対しては「春」の意味で用いられていることは明らかだが、前例とは趣を異にする。
 このような言語的技巧が成立するためには、音声「フル」「ハル」が二重の言語過程を構成して、それぞれ二つの概念あるいは表象を喚起するということが存在しなければならない。フル→経る フル→降る  ハル→張る ハル→春
 我々の言語は、音声と心的内容とが結合した実体的なものではなく、音声が心的内容を喚起し、心的内容が音声を喚起する過程それ自体である、というのが私の見解である。
 常態においては、特定音声は、一つの心的内容を喚起するが、多義な場合には、一つか他にもあるかという選択が許される。
 マツ→松(あるいは待つ) アキ→秋(あるいは厭き)
 上のような場合には、言語を音声と心的内容との結合した実体のように考えることも差し支えないように見られるが、前例の懸詞の場合は、言語実体観では説明できない。「フル」が「経る」「降る」の兼用であるということは、「フル」という音声が同時に「経る」「降る」の二つの概念を持っていることを意味するのではない。それは一語多義の機能で用いられたものではないことは明らかである。このことは「ハル」の兼用を見ればいっそう明らかになる。「梓弓ハル」においては単一に「張る」の概念のみで承接し、「ハルの山辺」においては「春」の概念のみで承接するのだから、一音に二つの概念が結合していると見ることはできないのである。懸詞における我々の具体的経験は、「ハル」という音声が、「梓弓」に接しては「張る」の意味を喚起し、「の山辺」に対しては「春」の意味を喚起するという経験以外のものではない。このような経験によって、我々はそこに二つの語の存在を把握することができるのだが、概念喚起の媒材が共通音であるというところからこれを懸詞といえるのである。音声は意味がそれに結合して言語という実体を構成しているのではなく、音声は、(それに連合できる概念を喚起する)媒材としての機能しか持てない。同一音声によって種々な概念が喚起できる場合、これを一つの方向に規定するものは、聞き手の立場であり、特に文脈である。いわゆる穿き違い、見当違いは、聞き手の立場が話し手の立場と相違することによる概念把握の変則的規定であり、懸詞は文脈による概念喚起の二重規定であるということができる。二重過程の成立を前提としないで懸詞の存在を考えることはできない。
 懸詞は一語多義的用法ではないから、曖昧な語の用法ということはできない。むしろ、共通音声によって喚起される二つの概念の間には、明瞭な対比が意識されている。我々の概念作用は、多くの場合、異なった事物を異なった事物として意識せず、同化作用によって異なった事物を同じ事物として同一音声で表出する。例えば、甲乙丙の異なった「花」を、同一音声「ハナ」で表すようなものである。懸詞はこれに反して、同一音声によって喚起される概念を、異なった事物として故意に対立させるところに主眼点があるのである。● 獨ぬる床は草葉にあらねども秋くるよひは(つゆけかり)けり(「古今集」)
 上の「露けし」という語は、一般には類推で自然の露けき意味にも、また心の悲しき意味にも通じて用いられる語だが、上の歌においては、逆にこの二つの観念を厳然と対立させているところに興味があるのであり、従ってこの語は懸詞といわなければならない。同様な例は、
● 秋風にあへずちりぬるもみぢばの(ゆくへさだめぬ)我ぞかなしき(「古今集」)
● 春霞たなびく山の桜花みれども(あかぬ)君にも有かな(同上)
● 吉野川いは浪たかく行水の(はやく)ぞ人を思そめてし(同上)
● みちのくのしのぶもちすり誰ゆえに(みだれ)むと思ふ我ならなくに(同上)
 上の「ゆくへさだめぬ」「あかぬ」「はやく」「みだれ」は、それぞれに二つの観念の対比を導くところに興味が存するのであって、作者の意図もまたそこにあると考えなくてはならない。懸詞によって導き出される一つの観念、例えば「もみぢ葉のゆくへ」は、他の観念「我が心のゆくへ」に対して同一のものとして結合するのではない。むしろ異なる観念として対照されるところに懸詞の意味がある。概念的判断が、正反の止揚による合の成立を意味するとすれば、懸詞は合から正反の矛盾的対立を還元することになる。従って「秋風にあへず散りぬるもみぢ葉の」は、「ゆくへ定めぬ我」の限定修飾語とはなり得ない。もし限定修飾語であるなら、この一首は論理的に統一された思想の表現であるというべきである。「ゆくへ」が懸詞であるということは、むしろこのような論理的統一以前の矛盾する二つの観念を、その矛盾のままに投げ出すところに意味があるのである。
 懸詞を統一より矛盾への還元を媒介するものであるとすることは、懸詞を含む文の統一性を考える上からも、また懸詞による表現の美がどのようなものであるかを明らかにするためにも重要な点であろうと思う。
【感想】
 ここでは、懸詞による美的表現について述べられている。「懸詞とは、一語を二語に兼用し、前句後句を(違った意味を持つ)一語で連鎖する修辞学上の名称である」こと、「同一音声によって種々な概念が喚起できる場合、これを一つの方向に規定するものは、聞き手の立場であり、特に文脈である。いわゆる穿き違い、見当違いは、聞き手の立場が話し手の立場と相違することによる概念把握の変則的規定であり、懸詞は文脈による概念喚起の二重規定であるということができる。二重過程の成立を前提としないで懸詞の存在を考えることはできない」、さらに「懸詞は同一音声によって喚起される概念を、異なった事物として故意に対立させるところに主眼点があるのである」というところまでは、何とか理解できたが、〈懸詞によって導き出される一つの観念、例えば「もみぢ葉のゆくへ」は、他の観念「我が心のゆくへ」に対して同一のものとして結合するのではない。むしろ異なる観念として対照されるところに懸詞の意味がある。概念的判断が、正反の止揚による合の成立を意味するとすれば、懸詞は合から正反の矛盾的対立を還元することになる。従って「秋風にあへず散りぬるもみぢ葉の」は、「ゆくへ定めぬ我」の限定修飾語とはなり得ない。もし限定修飾語であるなら、この一首は論理的に統一された思想の表現であるというべきである。「ゆくへ」が懸詞であるということは、むしろこのような論理的統一以前の矛盾する二つの観念を、その矛盾のままに投げ出すところに意味があるのである〉という部分になると、ほとんど理解不能になってしまった。
 著者の例示した和歌「秋風にあへずちりぬるもみぢばのゆくへさだめぬ我ぞかなしき」は「秋風に耐え切らないで散っていった紅葉の行方が知れなくなるように、行く末のわからないわが身が悲しい」という意味であろう。「散っていったもみぢ葉の行方はわからない」ということと「ゆくへ定めぬ我」とが《異なる観念として対照される》ということ、また《概念的判断が、正反の止揚による合の成立を意味するとすれば、懸詞は合から正反の矛盾的対立を還元することになる》という説明は、おそらく弁証法に基づいていると思われるが、難解すぎて私にはわからなかった。上述した私の解釈は、「論理的に統一された思想の表現」としてしか、この歌を理解していないように思われる。以下を読み進めることで、懸詞の主眼点を理解できるようになることを期待したい。
(2017.12.1