梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・34

 再び形容詞連用形接続の「あり」について考えて見ると、そこには詞としての「あり」と、辞としての「あり」の二通りがあると思われるが、「暖いです」「暖うございます」の「です」「ございます」は明らかに辞としての用法だが、次のような場合はどのように考えればよいだろうか。
● 殿下は中将であらせられる。
● 殿下は中将でいらっしゃる。
● 殿下は中将にておはす。
 上のように用いられた場合、「彼は中将だ」と比べて、「あらせられる」以下のものは、存在の概念を表すものと考えるべきである。
● 私は背が高うございます。
● 殿下はお背がお高くいらっしゃる。
 の例でも、前者の「ございます」は、判断辞の聞き手に対する尊敬による変容と考えられるが、後者の「いらっしゃる」は、表現素材のあり方の表現に関するものであり、主語となる事物が、そのように存在するということを表したものである。素材のあり方の表現は詞に属するものである。上の二例は、表現の外形だけを見れば、同じように考えられるが、それに対する理解を反省して見るなら、前述の区別が認められ、文法的にいえば、一方が辞であり、他方が詞ということになる。「あり」が詞から辞に転換したのと同じように、「いらっしゃる」も辞としての用法に転じることが可能でなければならないはずだが、「いらっしゃる」が、特殊の存在の概念を表すものとして用いられている限り、それは辞に転換しないのであり、辞に転換した時は、もはや特殊の素材についての表現の効果を失うものと考えられる。
 「ござる」は、元来、存在についての敬語的表現に用いられたものだが、後に、場面に対する敬語として用いられてくると、
● 私は背が高うございます。
 と、いうことができても。
● 殿下はお背がお高うございます。
 は、聞き手に対する敬語の表現とはなっても、殿下に対する敬意の表現にはなり得なくなるのである。また、単なる判断として表現するよりも、存在として表現するところに、素材に対する敬意の表現の技術があると考えられ、「行く」より「行きなさる」、「高い」よりも「高くおありになる」の方が一層敬語として価値があることがわかるのである。


【感想】
 ここで著者は、「殿下は中将であらせられる」「殿下は中将でいらっしゃる」「殿下は中将にておはす」の「あらせられる」「いらっしゃる」「おはす」は存在の概念を表す詞とした上で、「私は背が高うございます」と「殿下はお背がお高くいらっしゃる」という二例の敬語文を比較している。前者の「ございます」は判断を表す辞が、聞き手に対する敬意を込めて変容したもの(すなわち辞)だが、後者の「いらっしゃる」は、表現素材のあり方を表現しており、主語となる事物(この場合は「殿下」)がそのように存在していることを表す詞であるということである。
 したがって、「殿下はお背がお高うございます」という表現では、殿下に対する敬意を表せないということになる。なるほど、「ございます」は、話し手が聞き手に対して敬意を表しているにすぎないということがよくわかった。殿下に対する敬意をあらわす場合は「お背がお高くいらっしゃる」でなければならないということである。それにしても、現代社会では、そのような表現をする人は皆無であろうと思うと、本書が著された1941年という時代との差を感じざるを得なかった。(2017.10.10)