梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・35

 「あり」に存在詞としての意味と、判断辞としての意味が存在することは、「て」「に」と結合する場合にも現れてくる。「て」と「あり」の結合。この結合が口語に「た」となった時、
● 昨日見(た)。
● あなたに送っ(た)本。
 上のような「た」は、明らかに辞としての用法だが、
● 少し待っ(た)方がいい。
● 尖っ(た)山。
 のような「た」は、「・・・である」の意味であり、詞としての用法である。
 現在では、「た」は確認的陳述を表す結果、詞としての用法には、むしろ「待っている」「尖っている」というように、明らかに存在概念を表すことができる語が別に生まれてきたが、口語の「た」に上のような二通りの理解が可能なのは、その源流において、存在詞として用いられた「あり」と、判断辞として用いられた「あり」があったことを物語るものである。
《存在概念の詞として理解すべき「あり」》の例
● 残り(たる)雪に交れる(「万葉集」)
● いづこに這いまぎれて、かたくなしと思ひ居(たら)む(「源氏物語」・空蝉)
● 向かひた廊の、上もなく荒ばれ(たれ)ば(「源氏物語」・末摘花)
《確認を表す判断辞として理解すべき「あり」》の例
● さし櫛みがく程に、物にさへて折れ(たる)、車のうちへかへされ(たる)(「枕草子」)● 物くはせ(たれ)ど食はねば(「枕草子」)
《存在詞として理解することが可能な「あり」》(「に」と「あり」の結合)の例
● 吉野(爾在・ナル)なつみの河の(「万葉集」)
● 駿河(有・ナル)ふじの高嶺の(「万葉集」)
● この西なる家には(「源氏物語」)
《存在詞として理解可能な「あり」が、単なる陳述の表現に転換する》例
● うつせみの人(有・ナル)我や(「万葉集」)
● 何有(イカナル)人か物思はざらむ(「万葉集」)
● 晝はながめ、夜は寝覚めがち(なれ)ば(「源氏物語」・空蝉)
● ここの宿守(なる)男(「源氏物語」・夕顔)
《さらに、純然たる辞の用法に発展する》例
● その事(なら)ば、
● 余り(な)ことです。
 以上については、詞辞の転換の原理を述べる際に付け加えることとし、ここでは「あり」に辞としての用法があることを指摘するだけにしておく。


【感想】
 ここでは、「あり」に存在詞としての意味と、判断辞としての意味が存在することについて、述べられている。「あり」が「て」と結合し、口語の「た」になった時、「昨日見(た)」「あなたに送った(た)本」の「た」は明らかに辞だが、「少し待っ(た)方がいい」「尖っ(た)山」の「た」は、「・・・である」の意味であり、詞としての用法である、という説明がよくわからなかった。たしか「吾輩は猫である」の「・・・である」は辞としての用法ではなかったか。その場合とどのように違うのだろうか、という疑問が残った。
 さらに著者は、①存在概念を表す詞としての「あり」の例、②確認を表す辞としての「あり」の例、③存在詞として理解することが可能な「あり」(に・あり)の例、④それ(③)が単なる陳述の表現に転換する例、⑤さらに純然たる辞の用法に発展する例を挙げているが、それぞれの「あり」「なり」(に・あり)を見て、どの例に該当するかを、瞬時に区別することは極めてむずかしいことだと思った。著者は〈ここでは「あり」に辞としての用法があることを指摘するだけにしておく〉と結んでいるので、私もその疑問を抱いたまま、先を読み進めることにする。(2017.10.11)