梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・23

《四 音声と音韻》
 リズムによって音節が規定され、音節を構成する機能に従って母音と子音が区別されるが、これらの音をさらにその発生的条件によって類別したものが単音である。単音の概念は、純粋に生理的心理的条件を基礎にした概念である。言語の音声は、言語主体の心理的生理的所産であり、主体を離れて客観的に存在するものではない。このことは、音声を他の音響と区別する重要な契機である。 
 松風の音も、言語の音声も物理的な音波としては変わりがない。しかし、一方は自然の音であり、言語の音声は主体的所産なので、物理的音波以上のものを把握していることを意味する。自然の音響でも、それが音楽の中に取り入れられ場合には、主体的所産と考えなくてはいけない。それは人間の感情の延長としての意味を持つことになる。自然の音響と音声との違いは、自然の風景と風景画の相違のようなものである。後者は主体的所産だから自然の風景とは本質的に異なる。
 それならば、観察者の立場においては、どうすれば音声を対象として把握することができるか。主体的意識における音声に基礎を置き、それを出発点としなければならない。甲乙の両人が[ア]と発音したとする。(純粋物理的音波として)甲の[ア]は[α]であり、乙の[ア]は[a]であるという識別が得られたとしても、甲乙が主体的立場においてその違いを意識しなければ、国語の[ア]は一つである。それは、心理学の実験において、現象の客観的事実がどうであろうとも、被実験者の認識を基礎とし、その認識の根拠としてのみ客観的事実を考慮することと似ている。音声論の対象は、観察者の前に置かれた音声的事実(物理的音波としてでも、心理的表象としてでも)ではなく、言語主体によって意識されるかぎりの音声を出発点としなければならない。「電気」「電波」「林檎」の[ン]は、それぞれn、m、gであるといわれているが、この識別は、主体的意識を離れた音声の観察的識別であって、国語の主体的意識としてはその違いを意識しているわけではない。従って、国語において[ン]は一個しか存在していないということができるのである。このことは、音の対立関係を考える場合にも適用できる。無声音pに対して有声音bを対立させるのは、音声の純客観的生理的現象の観察からいえるが、主体的意識においては[バ]にたいするのは[ハ]であって[パ]ではない。同様に[フ]はハ行に属するものではなく、[チ]はタ行の音ではないが、ハ行、タ行の系列に属すると認めているのは、音声主体の持つ体系的意識に基づくものである。このように、客観的観察と主体的意識の乖離から、客観的に認識されたものを音声、主体的意識によるものを音韻と称して区別することがあるが、音声論の対象が言語の音声であり、言語の音声を観察するには主体的意識による音声を基礎とすべきであるという方法論に従えば、音声論の対象が音韻であることは自明のことだから、特に音韻と称して区別する理由はない。
 しかし、音声の生理的物理的方面の観察も実際上必要であり、度外視はできない。音声の観察が音韻の観察に対立すると考えることも一理ある。そこで客観的生理的方面の観察であるとされる音声の研究が、はたして同一対象に対する異なった立場の観察であるか否かを見ると、それは同一対象に対する異なった立場ではなく、同一物の異なった段階に対する観察であることがわかる。[ン]について説明すると、生理的物理的条件としては異なった[m][n]が、主体的意識としては[ン]として意識されるのである。音声を単に表象的にだけ見るのは正しくなく、心理的生理的物理的継起的現象として見なければならない。音声をそのように把握するならば、音声の観察は、主体的な発音行為の一段階を観察したことになる。音声観察と音韻観察とは、客観と主観との別でもなく、具体と抽象の別でもなく、生理的段階と意識的段階とに対する別であり、この両者の観察を俟ってはじめて音声の全貌を把握できるというべきである。
 私は音声と音韻との別を発音行為全体の段階的区別と考えるので、言語音声の研究にはこの二つを区別する必要はなく、また区別すべきではなく、音声研究は、音声の意識的方面も、生理的物理的方面も共にその中に包含しなければならなと考える。それは、音声と文字とは言語の表現の段階として考察されるのと同じである。文字がその根底に音声の存在を予想させ、音声は文字によって可視的にされるのと同様に、音声の生理的物理的方面と、意識的方面とを区別しなければならないと思う。そのような観察は、あくまで主体的立場を前提としなければならない。


 一般には音声と音韻との対立は上のようには考えられていない。
 その一は、音声と音韻とを具体と抽象との別で説明することである。音声は、皆それぞれに個性を持ち、同じ「サクラ」という音声も甲と乙では異なるばかりでなく、時と場所によって相違する。しかし、音韻はそれらの個性を引き去った共通の観念として残されたものだという。(金田一京助氏「国語音韻論」)この説には、立場の混同がある。個々の音声が甲乙によって異なり、同一のものが一個もあり得ないとするのは純客観的な観察的立場である。ところが一方、我々が言語の概念に対応していると考えている音韻は、観念的存在であると金田一氏は考えているが、それは主体的な立場におけるものである。
 また別の見方から、具体的音声、抽象的音声、主観的音声、客観的音声というような区別によって、音声と音韻の対立が考えられている。(神保格氏「国語音声学」)この場合に具体とか抽象とかいうことを、観察者の立場からだけでいえば、抽象的音声、主観的音声ということが、必ずしも主体的意識としての音韻を意味することにはなり得ない。なぜなら、国語の[ン]にm、n、gを区別するということは、[ン]一個だけを認めることと同様に、具体的音声からの抽象であり、客観的観察であると同時に、観察者の主観的聴覚表象に基礎を置いたものだからである。以上の理由から、音声と音韻とを具体的と抽象的とによって区別することも不合理であり、客観的と主観的との区別を設けることも意味をなさない。
 上の説に対して、有坂季世氏は、明らかな立場の相違によって、音声音韻の別を説いた。音韻は音の一族ではなく、音の理念であるとする。(菊澤孝生氏「国語音韻論評」の中)音の一族として音韻を認める立場は、観察的立場である。m、n、gが[ン]の一族であるとする時、このような認識をする者は観察者以外にはない。これに対して、m、n、gをその理念である[ン]の具体的実現であると考える時、このような音理念の所有者は必ず言語主体でなければならない。ただ有坂氏は、理念的音韻とその具体的実現である音声とを言語主体において対立しているもののように考えているが、一歩進んで考えるなら、言語の主体的意識としては、音韻理念と音声的実現との間に差別が考えられるはずはなく、音韻と音声を区別するものは主体的意識を離れた観察者でなければならない。[ン]はたとえ実現された場合でも、主体的意識としてはひとしく[ン]の実現としてのみ意識されるのである。ここでm、n、gを区別するのは観察的立場である。主体的立場のみから、理念的音韻と具体的音声とを区別することは困難である。


 以上で明らかなように、音声研究には観察的立場と主体的立場の二つの相違がある。観察的立場は主体的立場を前提とするべきだから、この方法論に基づく時、音声、音韻は対立したものではなく、音韻研究は音声研究の中に包含されることとなり、音韻と音声とは、言語の音声的表現における段階と考えられるゆえに、音声音韻に分けて考察することは、言語音の全面的理解に遠ざかることになるのである。


【感想】
 著者によれば、音声と音韻は、主体的な発音行為の生理的段階と意識的段階という区別であって、言語音声の研究においては、特にこの二つを区別すべきでなく、その中に包含しなければならないということである。「ン」と発音する時、生理的物理的条件としては[m][n]という違いがあるが、主体的音声意識としては同じ[ン]として意識される。同様に、五十音タ行の「チ」「ツ」も生理的物理的条件としては「タ」「テ」「ト」とは異なる。「チ」の調音法(構音点)は、チャ、チュ、チェ、チョと同じであり、音声学的にはチャ行に属すべきだが、主体的音声意識としては「タ」「テ」「ト」と並んでタ行に属することが許される。「ツ」も同様である。またハ行の「フ」、カ行の「キ」、サ行の「シ」等も音声学的には他の行音とは異質だが、同属を許されているということである。いずれも、「音声研究の観察的立場は主体的立場を前提とすべきである」という著者の方法論が貫徹されていて、たいそう興味深かった。(2017.9.23)