梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・19

《十二 言語の史的認識と変化の主体としての「言語」(ラング)の概念》
 言語の史的認識は、観察的立場においてなされるものであって、主体的立場においてはつねに体系以外のものではない。主体的言語事実を、排列した時、そこに変化が認められ、しかもそれが時間の上に連続的に排列される時、そこに歴史的変遷を認識することができる。歴史的認識は方言的認識に対立するものであり、後者は時間に対して方処的に認められる変化である。共通することは、それが観察的立場に属することであって、主体的意識には属さないことである。
 主体的意識において認められる言語の異同の現象は、通常、変化と呼んでいる。「咲く」が「咲かない」となり「咲けば」となるのは語尾の変化であって、歴史的変化ということはできない。「買って」を「買うて」というのは方言的差異だが、同一主体に共存する場合は、文体的意義を持ってくる。「咲きて」を「咲いて」といった場合、主体的意識としては前者を文語的表現、後者を口語的表現と考えるが、歴史的変遷ということはできない。一方を古代語の表現、他方を現代語の表現と認めれば、歴史的変遷という認識が成立することになる。客観的に見て同一と思われる二つの現象が、同一主体において共存する場合は、文体的差異となり、そうでない場合は歴史的変遷あるいは方言的差異となることは注意すべきことである。言語の歴史的認識は、言語の史的変遷という事実によって生じるが、それならば史的変遷の主体は何であり、また何によって史的変遷は生じるか。史的認識は、具体的な言語の時間的な比較対照から生まれるものだから、史的認識の根源は個々の具体的な言語事実の中になければならない。ここで、具体的な言語の変遷ということが、どのような事実であるかを明らかにしなければならない。言語構成観は、「言語」(ラング)を主体から離れた心理的実体のように考え、「言語」(ラング)を、変化を受ける主体のように見る。「言語」(ラング)の構成要素である聴覚映像の変化が音の変遷と呼ばれるべきものであって、具体的な個々の音声は、一回毎に消滅するものであるから、これには変遷ということが認められないとする。


◎音声は、あくまで生理・心理的活動の所産であって、人間が生まれてから死ぬまで、毎日繰り返して発しているが、その度毎に止むもので、これには歴史がない。音韻はそれと違って歴史がある。(金田一京助博士・「国語音韻論」)
◎変化に襲われるのは実にこの音韻観念である。唇の上の生理的音声ではない。それゆえ、変化の座は脳裡にあり、口先にはない。(小林英夫氏「言語学通論」)


 このように、音声に対する音韻という観念が現れて、音韻観念の変遷によって言語の音韻史が成立すると考えられるようになった。そこに不合理な点を見出さないわけにはいかない。歴史的変遷は、主体を媒介とする個物と個物との制約連関から成立している。言語音の変遷も同様である。例えば「ここだ」「ここら」の二語をとって見る。甲時代における主体一般は「ダ」と発音していた。乙時代になると、調音部位が次第に後退した結果「ラ」と発音されるようになった。dがrに変わるということは、甲乙両時代における言語主体の発音行為の移動に基づくものである。歴史的認識の根拠は、個々の具体的な言語事実にあると考えなければならない。従って、歴史的変遷の原因は、主体意識と言語的実践に帰着させることができる。すなわち、ある時代のd音の発音部位がr音の発音部位に移りやすい傾向を持っている時、聞き手はこれをrの音声表象に連合し、自ら発音する時は、rの調音法をとる結果、甲より乙への変遷の現象が起こり、ついに全く他の発音部位に移ってしまうのである。しかも、これらの場合、主体的には何らの変遷をも意識されないのである。
 このように言語音の変遷を考えれば、音声に対して、音韻を変化の主体と考える必要がない。音韻が変化に襲われるということは事実に合致しない。
 言語史の基礎観念としても、言語を過程的構造において把握することは重要である。それによって、言語を自然科学的偏見より救い、文化科学の中に位置づけることができるのである。 
 本論は、もっぱら主体的意識における言語の体系について論じるので、歴史的変遷及び方処的差異は、将来の考究に俟つこととした。


【感想】
 ここでは言語の史的認識(史的変遷)について述べられている。
 「言語の歴史的認識は、言語の史的変遷という事実によって生じるが、それならば史的変遷の主体は何であり、また何によって史的変遷は生じるか」。著者によれば、史的変遷の主体は、その時代時代における言語主体(話し手と聞き手)である。言語構成観では、「言語」(ラング)自体が主体として変化するように考えられているが、言語は(自然物のような)実体ではないので、それ自体が変化するというのは不合理である、ということであろう。
 以上で、総論は終了する。次はいよいよ「第二篇 各論」となる。大きな期待を持って読み進めたい。(2017.9.19)